2013年5月15日水曜日

六日目:聡明=intellectus

J神学生による分かち合い

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 今日のノベナのテーマは皮肉と言えるかもしれません。誰かが「理解」について語る時、聞き手は、語り手が少なくともそのことばや言語を、人に何を言おうとしているかを分らせようとして使うことを期待するものです。しかも、わたしは皆さんの前でこの聖霊の賜物のひとつについて分かち合いを始めるにあたり、まさに理解の本質を裏切る言語でこれを行うからです。けれど、そこで、再び、信仰のほとんどのことがそうであるように、理解は頭でするのではなく心でするものなのです。これがわたしの無礼がただの愚かな行為ではないようにと皆さんの赦しを願えるのではないかと幾分かわたしを励ましてくれるものです。

 パウロのコリント人への第二の手紙はわたしたちに理解とは何かを語っていません。けれどこの賜物の定義をわたしたちに与えないものの、わたしたちの使命、わたしたちの信仰、つまり、キリストのためにわたしたちが苦しむ挑戦や困難は決して無駄ではないということを理解するために必要な明言と慰めをもたらします。パウロはわたしたちがしなければならない仕事はあわれみの行為によって与えられ、このためにわたしたちは赦す愛によって、残る愛によって燃え立つ証し人となる、ということを思い出させています。

 様々な仕方で、わたしたちは初期キリスト者共同体とそれほど違わない、とわたしは思います。わたしたちはもはや当時のようには迫害を受けてはいませんが、だからといってわたしたちの務めがもっと簡単になったかというとそうでもありません。わたしたちは今もなお、キリストの死をわたしたちの体に運び、彼のいのちがわたしたちのうちに示されるようにするために呼ばれているのです。たとえわたしたちの教会においてわたしたちに耳を傾ける人が少なくなり、また消極的になったとしても、たとえわたしたちの学校での宣教の努めが疲れを伴いほとんど報いがなくても、たとえわたしたちが勉強しなければならない文法と語彙の本の行列が果てしなく見えても、わたしたちは決して失望しません。なぜならわたしたちはこの旅路で決して一人ではないと理解しているからです。

 これがおそらく、理解の賜物がどのようなものであるかを語るものなのでしょう。わたしたちの信仰、わたしたちのいのちは、わたしたちをまず選んでくださった愛を燃料として燃えています。そしてそのためわたしたちはわたしたちを救ってくださったのと同じ力によって動かされて行動をするのです。なぜならまさに、永遠のいのちにわたしたちを定める憐みを映すこと以外に行動する方法は本当にないからです。このことを理解するためこれを信じるため、このために愛するために・・・。それはすでにわたしに充分な恵みであり、わたしはけっして欠けることがないのです。

五日目:知識=scientia

四日目:剛毅=fortitudo

三日目:孝愛=pietas

二日目:敬畏=timor domini

2013年5月10日金曜日

2013年 聖霊降臨祭に向けてのノベナ 第一日目:聖なる霊、神の子とする霊、贖いの霊


Novena preparatória para el Pentecostés: Día 1.
Día 1: "El Espíritu Santo, el Espíritu que nos hace hijos de Dios, El Espíritu redentor"
C神学生による分かち合い El compartir del Seminarista "C"

朗読個所:ロマ8章18―25節 Lectura bíblica: Roma 8, 18-25

 おはようございます。段々と聖霊降臨の日も近づいてきまして、教会でも聖霊降臨の準備を始めています。
 Buenos días! Se  está acercando la fiesta de Pentecostés, la llegada del Espíritu Santo, ya ha comenzado la preparación en diversas parroquias también.

 わたしもアポストラートゥス先でも、先日日曜学校で、聖霊降臨について何か話をしてほしいと言われまして、聖霊について少し話をしてきましたが、わたしも何を教えたらいいかよく分らなかったので、とりあえず、霊についてのイメージ、どんなものを思いつくかを質問したところ、『トイレの花子さん』や『こっくりさん』あと、まぁ心霊体験の話など、そういう様々な話が出てきましたけれど、やはり主に怪談話が中心でした。いつの時代においても怪談話は人気があるようで、わたしも幼いころ、様々な話を聞いたのが記憶に残っています。
 A mí también me pidió hablar sobre Pentecostés en la escuela dominical de la Iglesia donde voy para el apostolado, compartí un poco, pero como no sabía qué tuve que enseñar, pregunté a los chicos qué imagen tiene del "espíritu". Entonces, ellos me respondieron de "Hanako-san del baño" o de "Kokkuri-san"(hay dicho del que existen los espíritus que poseen la persona o fantasmas con estos nombres en Japón), o de las experiencias espirituales miedosas. Había varias historias que salieron de la boca de los niños, pero la mayoría era la historia de fantasma o monstruo. En cualquier época, la historia de horror es querido, yo también desde mi niñez, he escuchado varias historias así.



 また、わたしが幼いころ、両親の言うことを聞かないと、よく「アモコが出るぞ」、つまり幽霊が襲いに来るぞと言われて脅されていたのを覚えています。そういった話が伝わっていく、というのは、やはり目に見えないものに対する畏敬やそういった真理に対する憧れといったものがあるからかもしれません。
 Cuando todavía era chiquito, en cuanto no obedecí a mis padres, ellos me asustaron diciendo: "Va a aparecer AMOKO" que significa en mi dialecto, "va a aparecer una fantasma para atacarte". ¿Por qué el dicho así se transmite por descendencia a descendencia? Yo creo que es porque inconscientemente tenemos temor a los invisibles o atracción a la verdad de existencia así.

 科学の発達した現代においても、自然災害から超常現象に至るまで、わたしたちは目に見えない何かを恐れ、またそれに頼りつつ暮らしているのだと思います。
  Hoy día, la ciencia ya se avanzó. Pero seguimos teniendo miedo a los invisibles o dependiendo de ellos tanto en el catástrofe por la naturaleza como en los fenómenos sobrenaturales.

 少し話が変わりますけれども、仏教の経典、『般若心経』に、「色即是空、空即是色」という言葉が出てきます。日本語のなかでも、たま~に耳にしますけれども、色即是空の、「いろ」という字、色これすなわち『くう』、『そら』という字を書くんですけれども、いろなるもの、すなわち、この世のすべてのものは、すなわちこれは空(くう)である。空(くう)というものは、目に見えないもの。目に見えるものは、すなわち目に見えないものである、ということで、この世のすべての目に見えるものは、目に見えないものと関わりながら、これ、仏教のことばでは縁起(えんぎ)というらしんですけれども、それによって成り立っている、ということだそうです。だからこそ、目に見えるものだけに捉われることのないように、というように教えているようです。
  Cambiando un poco el tema, en "Hannya shingyo" que es el libro de budismo como la Biblia para nosotros,  aparece una frase así: "Shiki soku ze kuu, kuu soku ze shiki". En la convresación japonesa también aparece de vez en cuando, vamos a ver el significado de esta frase clásica. De "Shiki soku ze kuu", esa palabra "Shiki" es de la letra "color". "El color es Kuu", para "kuu" se escribe con la letra "el cielo, el vacío", y el vacío es algo invisible. Entonces, esta frase significa "el visible es invisbile". Es decir que todas las cosas visibles de este mundo están relacionados con lo invisible, en la expresión budista se dice sobre esto como "engui (relación)", por esta relación todas las cosas están establecidas.  Por eso, que no nos apeguemos demasiado sólo a las cosas visibles, parece que en el budismo enseñan así.

 先ほど読みましたパウロの手紙の中でも、「被造物が無に服している」ということを諭しつつ、「わたしたちの希望は、目に見えない霊である」ということを教えています。霊による恵みをいただいているわたしたちは、霊に導かれ、また、そのことによって神に愛される、ということを知っています。それは、決して目に見えるものではありませんけれども、そういったことを含めて、わたしたちは、目に見えないものと関わりながら生きているのだと思います。
  En la lectura recién leída de la Carta del Apóstol San Pablo, enseñando que "la creación es sometida a la nada", inculca que "nuestra esperanza está en el Espíritu invisible". Nosotros que recibimos la gracia del Espíritu Santo, somos guiados por Él, y através de ello, somos amoado por Dios. No podemos nunca verlo, pero incluyendo todo esto, podemos decir que vivimos relacionándonos con lo invisible.

 もしわたしたちの希望が地位や権威、富や名声など、わかりやすいものであるとするならば、その希望は潰(つい)え、無に服すものとなると思います。しかしながら、わたしたちは、聖霊の恵みを受け、神の愛を知っています。神や聖霊といった目に見えないものとの関わりのなかで生き、また、そのことによって、わたしたちが、神の子とされる希望をもっています。だからこそ、わたしたちの希望は、空しいものではなく、その希望によってわたしたちは生かされているのだと思います。
  Si nuestra esperanza está en algo comprensible como en el puesto, el poder, la riqueza o la fama, esa esperanza se desvanece, y vuelve en vano. Sin embargo, nosotoros, recibimos la gracia del Espíritu Santo y conocemos el Amor de Dios. Vivimos en la relación con lo invisible como Dios o Espíritu Santo, y a través de ello, tenemos la esperanza de ser hijos de Dios. Por eso, nuestra esperanza no es vana, y esta esperanza nos hace vivir.

 これからわたしたちが、目に見えるものだけにとらわれるのではなく、聖霊によって神の子とされ、また、霊によって生かされることを信じ、聖霊降臨を迎えることができるように祈り求めていきたいとお思います。
  Vamos a pedir a Dios la gracia de llegar a la fiesta de Pentecostés sin apegarnos con las cosas visibles, creyendo que seamos hijos de Dios por la acción del Espíritu Santo y Él nos hace vivir.