J神学生による分かち合い
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今日のノベナのテーマは皮肉と言えるかもしれません。誰かが「理解」について語る時、聞き手は、語り手が少なくともそのことばや言語を、人に何を言おうとしているかを分らせようとして使うことを期待するものです。しかも、わたしは皆さんの前でこの聖霊の賜物のひとつについて分かち合いを始めるにあたり、まさに理解の本質を裏切る言語でこれを行うからです。けれど、そこで、再び、信仰のほとんどのことがそうであるように、理解は頭でするのではなく心でするものなのです。これがわたしの無礼がただの愚かな行為ではないようにと皆さんの赦しを願えるのではないかと幾分かわたしを励ましてくれるものです。
パウロのコリント人への第二の手紙はわたしたちに理解とは何かを語っていません。けれどこの賜物の定義をわたしたちに与えないものの、わたしたちの使命、わたしたちの信仰、つまり、キリストのためにわたしたちが苦しむ挑戦や困難は決して無駄ではないということを理解するために必要な明言と慰めをもたらします。パウロはわたしたちがしなければならない仕事はあわれみの行為によって与えられ、このためにわたしたちは赦す愛によって、残る愛によって燃え立つ証し人となる、ということを思い出させています。
様々な仕方で、わたしたちは初期キリスト者共同体とそれほど違わない、とわたしは思います。わたしたちはもはや当時のようには迫害を受けてはいませんが、だからといってわたしたちの務めがもっと簡単になったかというとそうでもありません。わたしたちは今もなお、キリストの死をわたしたちの体に運び、彼のいのちがわたしたちのうちに示されるようにするために呼ばれているのです。たとえわたしたちの教会においてわたしたちに耳を傾ける人が少なくなり、また消極的になったとしても、たとえわたしたちの学校での宣教の努めが疲れを伴いほとんど報いがなくても、たとえわたしたちが勉強しなければならない文法と語彙の本の行列が果てしなく見えても、わたしたちは決して失望しません。なぜならわたしたちはこの旅路で決して一人ではないと理解しているからです。
これがおそらく、理解の賜物がどのようなものであるかを語るものなのでしょう。わたしたちの信仰、わたしたちのいのちは、わたしたちをまず選んでくださった愛を燃料として燃えています。そしてそのためわたしたちはわたしたちを救ってくださったのと同じ力によって動かされて行動をするのです。なぜならまさに、永遠のいのちにわたしたちを定める憐みを映すこと以外に行動する方法は本当にないからです。このことを理解するためこれを信じるため、このために愛するために・・・。それはすでにわたしに充分な恵みであり、わたしはけっして欠けることがないのです。
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