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イエスが信仰に導く完全な状態には、もう一つ別の側面があります。信仰にとって、キリストは、神の愛の最大の表現である方として信じる対象であるばかりでなく、信じることができるように、わたしたちと一つになってくださる方なのです。信仰はイエスを見るだけにとどまらず、イエスの視点で、その眼差しをもって見ることなのです。これはそのものの見方への参与なのです。人生の様々な環境では、自分たちよりもよく物事を知っている自分以外の人を当てにします。家を建てる際には建築家を当てにしますし、治療のための薬をもらうには薬剤師を当てにし、法廷で弁護してもらうためには弁護士を当てにします。同様にわたしたちは、神さまのことについて信ぴょう性のある専門家を必要としています。その神さまの息子であるイエスは、わたしたちに神さまの事を説明してくださる方として自己を紹介しています。キリストの生活は、その父を知る方法や父との完全な関係を生きる生き方を含め、人間の経験に、わたしたちも入ることのできる新しい空間を開きます。信仰を介してのイエスとの個人的・人格的な関係の重要性は、ヨハネが様々な形で用いる「信じる」という動詞に反映されています。イエスがわたしたちに言っておられることは真実「だと信じる」のに合わせて、聖ヨハネはイエス「を信じる」こと、またイエス「に信頼する」ことについて触れています。イエス「を信じる」のは、イエスが本当の方だということで、その言葉や証しを受け入れる時です。イエス「に信頼する」のは、愛を通して彼と一致し、長い歩みを通して彼について行きながら、わたしたちの人生に個人的・人格的に彼を歓迎し、彼を当てにする時です。
わたしたちが彼を知り、迎え入れ、彼に従うことができるようにと、神の子はわたしたちの肉体をその身に受け、そのようにして、一つの道、時の中での歩みを介して、父の展望は人間のあり方にも実現されました。キリスト者の信仰は、み言の受肉への信仰であり、また肉体におけるその復活への信仰なのです。ナザレのイエスにおいて人となられた神の子への信仰は、現実とわたしたちとを隔てるものではなく、わたしたちがその深い意味をくみ取り、神がどれほどこの世を愛し、どのようにしてたゆむことなくご自身に向けてこの世を導かれるかを発見することを可能にします。そしてこのことが、一キリスト者をして、地上での歩みをまだまだより密度の高い仕方で献身し、生きるようにと導くのです。
2013年11月14日木曜日
回勅『ルーメン・フィデイ(信仰の光)』56項、57項の訳
苦しみの中ではげましを与える力
56.聖パウロは、コリントのキリスト者たちに自分の艱難や苦しみについて書くにあたり、福音を宣べ伝えることと自分の信仰との関係を示します。そのように旧約聖書の言葉が成就するのだと言っています。「わたしは信じた、だから語ったのです」(IIコリント4章13節)。これは詩篇116篇の引用です。使徒は詩篇116編で詩篇作者が叫んでいる次のような表現について言及しています。「わたしは信じていた、『なんて自分は不運なんだ!』と言った時にも」(10節)。信仰について語ることはしばしば痛みの伴う試練について語ることにもなりますが、まさにその試練において聖パウロは福音に一番ふさわしい宣言を見出すのです。なぜなら弱さや苦しみにおいてこそ、わたしたちの弱さや苦しみを乗り越える神の力が示され、手で触れられるものとなるからです。使徒自身、死の危険にもさらされます。キリスト者たちにとっていのちに姿を変える死です(IIコリント4章7―12節参照)。試練のときに、信仰はわたしたちを照らし、まさに苦しみと弱さのうちに、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えて」(IIコリント4章5節)いることが明らかになって表れるのです。ヘブライ人への手紙11章は信仰によって苦しんだ人々についての言及で終わりますが(ヘブライ11章35―38節参照)、その中でも特筆されるのがモーセです。モーセはキリストの受けた侮辱を自分のものとしたのです(26節参照)。キリスト者はいつでも苦しみがあるだろうということを知っていますが、その苦しみが意義を与えることができるもの、愛の業や神のみ手のなかでの信頼に満ちた委ねに変わることができるものであることも知っています。その神はわたしたちを見棄てることがなく、このようにして、信仰と愛における成長のステージを作り上げることができる方なのです。キリストと御父の一致を見ながら、しかも十字架におけるこのうえない苦しみの時においても保たれた一致を見ながら(マルコ15章34節参照)、キリスト者はキリストの同じまなざしに与ることを学ぶのです。さらに死さえもが照らされ、信仰の最後の呼びかけ、御父の口から発せられる最後の「あなたの住み慣れた土地を離れなさい」(創世記12章1節)とう呼びかけ、最後の「来なさい」(マタイ4章19節、11章28節、14章29節、ルカ19章5節、ヨハネ1章39節、11章43節)という呼びかけとして体験されうるのです。その御父のみ手の中に、決定的な(天国への)一歩までをも支えてくださることに信頼して、わたしたちは自分の身を置くのです。
57.信仰の光は、わたしたちが世の苦しみを忘れるようなことには持っていきません。どれほど多くの信仰に生きる男女が苦しむ人々から照らしを受けたことでしょう!アシジの聖フランシスコはハンセン氏病の方から、カルカッタの福者マザー・テレサはその貧しい人々から。彼らはこの人々の中に隠れている神秘を捉えたのです。こうした人々に近づきながら、その苦しみのすべてを取り去ることはありませんでしたし、彼らを苦しめていた悪のすべてに何らかの成就の理屈を与えることもできませんでした。信仰の光は、わたしたちの闇のすべてを散らすわけではありません。そうではなく、ランプのように、夜道を行くわたしたちの歩みを導くのです。そして歩くためにはこれで充分なのです。苦しむ人に神は、すべてのことを説明する合理的な説明を与えるのではなく、共に歩む存在者としていることをもって応えるのです。そこでは良い歩みが苦しみの歩みと一つになり、光の隙間を開くのです。キリストにおいて、神ご自身がわたしたちとこの歩みを分かち合おうと望み、光を与えるためにその眼差しを差し出そうと望まれました。キリストこそがあの、痛みを耐えながら「わたしたちの信仰を創始し完成した」(ヘブライ12章2節)方なのです。信仰と希望、愛徳の醍醐味(Iテサロニケ1章3節、Iコリント13章13節)は、わたしたちが「神が設計者であり建設者である」はずのあの都に向かうわたしたちの歩みのうちに全人類の心配事をすべて統合させることを可能にします。なぜなら「希望はわたしたちを欺くことがない」(ローマ5章5節)からです。
信仰と愛徳の一致において、希望はわたしたちに確かな未来へとわたしたちを組み入れます。その希望は、世の偶像が夢想的に提案する、多様なものの見方のただ中に据えられています。けれどその希望は日々生きていくための内側からの促しの力と新しい強さを与えます。希望が奪われないようにしましょう。空間の中に姿を変えながら時間を分断する、道の妨げとなる即席の解決や提案で、希望が陳腐なものとされないようにしなければなりません。空間はプロセスをガラスのように固めて閉じ込めます。一方、時間は、未来へと向かい、希望をもって歩むように内側からの力で促すのです。
2013年11月11日月曜日
聖書における数字の意味
アリエル・アルバレス・バルデス
我々にとって数字には、聖書で読む数字とはとても異なる意味がある。
聖書においては数字には三つの異なる意味がある。数量、象徴、メッセージの三つである。
第一の意味:数量
これは我々が日ごろ用いる感覚と似ている。たとえば列王上18章1節、列王下22章1節、列王上4章7節、ヨハネ11章18節など。ここに出てくるような数字は象徴でもなく、隠されたメッセージも何もない。単純に、平たんに年数や人物の数、文章中に言及されている距離を指すのみである。この意味ではなんら混乱の余地もない。数字が言わんとしていることは、著者が見た通りのものである。
第二の意味:象徴(シンボル)
象徴的な数字というのは、数量を指すのではなく、ある概念を表現する。それは書かれている数字そのものとは異なるメッセージであり、その数字を越え、あふれ出ていく。
かならずしもいつも、この数字は「このような」ものだと知ることができるわけではない。この両者の現実の関係は、あまり知られていないことがある。西洋的な我々にとって、理解に難いものではあるが、セム系の人々は概念やメッセージ、キーワードを伝達するために、まったくもって自然にこれを用いていたのである。
聖書が、それぞれの数字が何を象徴するのかについて説明することは決してない。しかし研究者たちはその象徴のいくつかを調べあげるにいたり、聖書の多くのエピソードを明白に理解できるようにした。
数字の1は、神を示す。唯一だからである。そのため排他性、優先性、卓越性を指す: マタイ 19章17節、マタイ19章17節、マタイ19章6節、ヨハネ10章30節、ガラテヤ3章28節、エフェソ4章5節。このいずれの場合においても、1は神にまつわる環境を象徴する。
数字の2は人を意味する。というのは人には罪のせいで、いつも二面性があり、内側に分裂が生じているからである。マタイ20章30節、マタイ26章60節。
数字の3は「全体性」を意味する。恐らく3は、過去、現在、未来、といった時の諸次元だからであろう。3という言葉を口にすることは、「全体性」や「いつでも」ということを言うのと同等である。創世記6章10節、マタイ26章34節、イザヤ6章3節。
数字の4は聖書においては宇宙、世界を象徴する。方角も四つになっている。楽園に4つの川があった(創世記4章10節)と言われる場合、アダムとエバの罪の前は、森羅万象が楽園であったことを意味するのである。つまり、たとえある人々はそれがどこにあったのかを探し続けるにしても、これは定められたある一定の場所を言っているのではないのである。エゼキエル37章9節、黙示録4章6節。
数字の5は「いくつかの」「大体これくらいの量」といった、不特定の数量を意味する。そのように、パンの増殖の奇跡の時もイエスは五つのパン(=いくつかのパンのこと)を手にしたと言われている。市場では五羽の小鳥(=何羽かの小鳥)が硬貨二枚で売られている…。Iコリント14章19節も参照。
数字の7の象徴は、一番よく知られている。完璧さを意味する。だからイエスはペトロに対して7の70倍まで兄弟をゆるすように、と言うことになるのである。また悪の完全さ、あるいは最悪な状態を表現することにもなりうる。ある人から悪い霊が出て行った時により悪い7つの霊を連れて帰ってくることもありうると教える時や、福音で主がマグダラの女性から7つの霊を追い出したことを語る場合がそれである。
黙示録がこの数字を最も多く使用している書である。神の現実を象徴的に描写するために54回これを用いている。アジアの教会は七つ、神の玉座の霊も七つ、トランペットも七つ、燭台も七つ、角の数も七つである。
キリスト教の伝統はこの7が持つ象徴主義を引き継ぐため、秘跡の数、聖霊の賜物の数、徳の数も七という数字に目を留めている。
数字の10には覚えやすくする、という価値がそなわっている。手についている指の数が10本であるため、この数字で覚えるのが簡単になるのである。だからこそ主がモーセに与えた戒めの数は10であり(もっと多くてもよかったのだろうが)、エジプトを襲った災難は10種類である。同様な理由で創世記の元素の人々でアダムとノアの間は、もっといたであろうことは分っていたとしても10世代だと言われる。
数字の12もまた象徴的である。「選び」を意味する。だからこそたとえ実際には旧約聖書で12以上の部族についての言及がなされていても、イスラエルの12部族として語られ、それによってこれらすべてが「選ばれた」部族であったことを言わんとすることになる。同様にして、旧約の小預言者たちは12にまとめられる。また福音書はイエスの12使徒について言及することになるが、もしその名の数を照合させていくと12よりも多くなるのだが、彼らを「12使徒」と呼ぶ。なぜなら主によって選ばれた仲間たち、ということを言おうとするからである。イエス自身、自分を助けに来る用意のできている天使の軍団の数は12であるという言いかたをしている(マタイ26章53節)。黙示録はあの女性の冠となっていた12の星、エルサレムの12の扉、12の天使、命の木になる12の木について語ることになる。
40にも象徴的な価値がある。これはあるピリオドから他のピリオドへ、ある世代から次の世代への「移行」を意味する。だからこそ洪水は40日40夜続く(つまり新しい人類のあり方への移行である)。イスラエルの民は砂漠で40年過ごす(不忠実な世代から新しい世代に変わるまで)。モーセはシナイ山に40日間留まり、エリヤはそこに行くまで別に40日間歩き続ける(その生き方が変わっていくところへ向かって)。イエスは40日間断食をすることになる(プライベートの生活から公生活へと移行して行くからである)。
数字の1000は大勢、大量を意味する。ダニエル5章12節、詩篇90編、列王上3章4節、11章3節。しばしばこの数字は他の数字と組み合わせて用いられる。黙示録では象徴的に世の終わりに救われるのは144000人の選ばれた人たちであるという。なぜなら12かける12かける1000という組み合わせで、旧約の選ばれた人々を示す12と新約の選ばれた人々を示す別の12と大勢を意味する1000がかけあわされているからである。
他に70のような別の象徴的数字がある。聖ルカはイエスが、ご自分が通らなければならなかった場所や地域すべてに送るために70人の弟子を選んだと言っている(ルカ10章1節)。実際の数字ではなく、象徴的な数字である。創世記10章によれば、世界に存在していた国の数は全部で70である。ルカが70という数字を出してくるとき、そこで言いたかったのは、世界のすべての国々に福音がいきわたるように弟子たちを送ったということなのである。
ヨハネ21章11節にも別の数字がある。魚が153匹とれたと言っているが、こんなに細かい数字を残そうとしたのはなぜだろうか?実は昔は、漁師の間では、海の中に存在する魚の種類の数が153種類だと信じられていたのである。メッセージははっきりしている。イエスは世界のあらゆる国々、人種、国籍の人々を救いに来た、ということである。
聖書に出てくる数字すべてが象徴的であるというわけではないが、数字が出るたびに、この数字は数量を指しているのか、メッセージを含んでいるのか問わなければならないのである。
第三の意味:メッセージ(ゲマトリア的な意味で)
ヘブライ語とギリシャ語では、文字に数量的な価値がある。たとえば1はA、2はBといったように、である。
文字と組み合わせて作られる数字をゲマトリアと呼ぶ。
言葉にそれぞれの数字が隠されているかもしれないのである。聖書はこうしたゲマトリア的数字の例をいくつも抱えている。
たとえば、イスラエルの民がエジプトから脱出した時の男性の数は、女性と子供たちを数えずに603550人だったと言われているが、このフレーズ「イスラエルのすべての子ら」のヘブライ語文字の組み合わせを見ると、(rs kl bny ysr´l)その数値的な価値をあてはめると、ぴったり603550になる。そこで、この数字は「イスラエルのすべての子ら」が脱出したということを述べるのである。
マタイ1章17節は、イエスの先祖を三段階に分け、それぞれが14代になるという。けれどこんなに少ないということは不可能である。マタイは430年間続いたエジプトでの奴隷状態をカバーするのにたった三人の名前しか据えないのである。ここで生じたのは、ダビドという名を表そうとしたことにある(D=4 + V=6 + D=4 = 14)。そしてダビドの子孫から救世主が来ることが待ち望まれていたので、マタイ福音史家はイエスが「ダビデの三倍」、(3は完全を示すので)完全なメシア、ダビデの本物の子孫であることを言おうとしたのである。
こうしたゲマトリア的な数字で一番よく知られているのは、黙示録13章18節に見られる有名な666である。黙示録自体、これはある人の数字について述べるものであるとはっきり記している。その人というのは、皇帝ネロの事である。もし「皇帝ネロ」をヘブライ語で見ると N=50 + R=200 + W=6 + N=50 + Q=100 + S=60 + R=200 = 666になる。
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