2013年11月11日月曜日

聖書における数字の意味

アリエル・アルバレス・バルデス




 我々にとって数字には、聖書で読む数字とはとても異なる意味がある。
 聖書においては数字には三つの異なる意味がある。数量、象徴、メッセージの三つである。


第一の意味:数量

 これは我々が日ごろ用いる感覚と似ている。たとえば列王上181節、列王下221節、列王上47節、ヨハネ1118節など。ここに出てくるような数字は象徴でもなく、隠されたメッセージも何もない。単純に、平たんに年数や人物の数、文章中に言及されている距離を指すのみである。この意味ではなんら混乱の余地もない。数字が言わんとしていることは、著者が見た通りのものである。


第二の意味:象徴(シンボル)
 
  象徴的な数字というのは、数量を指すのではなく、ある概念を表現する。それは書かれている数字そのものとは異なるメッセージであり、その数字を越え、あふれ出ていく。
 かならずしもいつも、この数字は「このような」ものだと知ることができるわけではない。この両者の現実の関係は、あまり知られていないことがある。西洋的な我々にとって、理解に難いものではあるが、セム系の人々は概念やメッセージ、キーワードを伝達するために、まったくもって自然にこれを用いていたのである。
 聖書が、それぞれの数字が何を象徴するのかについて説明することは決してない。しかし研究者たちはその象徴のいくつかを調べあげるにいたり、聖書の多くのエピソードを明白に理解できるようにした。

数字の1は、神を示す。唯一だからである。そのため排他性、優先性、卓越性を指す: マタイ 1917節、マタイ1917節、マタイ196節、ヨハネ1030節、ガラテヤ328節、エフェソ45節。このいずれの場合においても、1は神にまつわる環境を象徴する。

数字の2は人を意味する。というのは人には罪のせいで、いつも二面性があり、内側に分裂が生じているからである。マタイ2030節、マタイ2660節。

数字の3は「全体性」を意味する。恐らく3は、過去、現在、未来、といった時の諸次元だからであろう。3という言葉を口にすることは、「全体性」や「いつでも」ということを言うのと同等である。創世記610節、マタイ2634節、イザヤ63節。

数字の4は聖書においては宇宙、世界を象徴する。方角も四つになっている。楽園に4つの川があった(創世記410節)と言われる場合、アダムとエバの罪の前は、森羅万象が楽園であったことを意味するのである。つまり、たとえある人々はそれがどこにあったのかを探し続けるにしても、これは定められたある一定の場所を言っているのではないのである。エゼキエル379節、黙示録46節。

数字の5は「いくつかの」「大体これくらいの量」といった、不特定の数量を意味する。そのように、パンの増殖の奇跡の時もイエスは五つのパン(=いくつかのパンのこと)を手にしたと言われている。市場では五羽の小鳥(=何羽かの小鳥)が硬貨二枚で売られている…。Iコリント1419節も参照。

数字の7の象徴は、一番よく知られている。完璧さを意味する。だからイエスはペトロに対して770倍まで兄弟をゆるすように、と言うことになるのである。また悪の完全さ、あるいは最悪な状態を表現することにもなりうる。ある人から悪い霊が出て行った時により悪い7つの霊を連れて帰ってくることもありうると教える時や、福音で主がマグダラの女性から7つの霊を追い出したことを語る場合がそれである。
黙示録がこの数字を最も多く使用している書である。神の現実を象徴的に描写するために54回これを用いている。アジアの教会は七つ、神の玉座の霊も七つ、トランペットも七つ、燭台も七つ、角の数も七つである。
キリスト教の伝統はこの7が持つ象徴主義を引き継ぐため、秘跡の数、聖霊の賜物の数、徳の数も七という数字に目を留めている。

数字の10には覚えやすくする、という価値がそなわっている。手についている指の数が10本であるため、この数字で覚えるのが簡単になるのである。だからこそ主がモーセに与えた戒めの数は10であり(もっと多くてもよかったのだろうが)、エジプトを襲った災難は10種類である。同様な理由で創世記の元素の人々でアダムとノアの間は、もっといたであろうことは分っていたとしても10世代だと言われる。

数字の12もまた象徴的である。「選び」を意味する。だからこそたとえ実際には旧約聖書で12以上の部族についての言及がなされていても、イスラエルの12部族として語られ、それによってこれらすべてが「選ばれた」部族であったことを言わんとすることになる。同様にして、旧約の小預言者たちは12にまとめられる。また福音書はイエスの12使徒について言及することになるが、もしその名の数を照合させていくと12よりも多くなるのだが、彼らを「12使徒」と呼ぶ。なぜなら主によって選ばれた仲間たち、ということを言おうとするからである。イエス自身、自分を助けに来る用意のできている天使の軍団の数は12であるという言いかたをしている(マタイ2653節)。黙示録はあの女性の冠となっていた12の星、エルサレムの12の扉、12の天使、命の木になる12の木について語ることになる。

40にも象徴的な価値がある。これはあるピリオドから他のピリオドへ、ある世代から次の世代への「移行」を意味する。だからこそ洪水は4040夜続く(つまり新しい人類のあり方への移行である)。イスラエルの民は砂漠で40年過ごす(不忠実な世代から新しい世代に変わるまで)。モーセはシナイ山に40日間留まり、エリヤはそこに行くまで別に40日間歩き続ける(その生き方が変わっていくところへ向かって)。イエスは40日間断食をすることになる(プライベートの生活から公生活へと移行して行くからである)。

数字の1000は大勢、大量を意味する。ダニエル512節、詩篇90編、列王上34節、113節。しばしばこの数字は他の数字と組み合わせて用いられる。黙示録では象徴的に世の終わりに救われるのは144000人の選ばれた人たちであるという。なぜなら12かける12かける1000という組み合わせで、旧約の選ばれた人々を示す12と新約の選ばれた人々を示す別の12と大勢を意味する1000がかけあわされているからである。

他に70のような別の象徴的数字がある。聖ルカはイエスが、ご自分が通らなければならなかった場所や地域すべてに送るために70人の弟子を選んだと言っている(ルカ101節)。実際の数字ではなく、象徴的な数字である。創世記10章によれば、世界に存在していた国の数は全部で70である。ルカが70という数字を出してくるとき、そこで言いたかったのは、世界のすべての国々に福音がいきわたるように弟子たちを送ったということなのである。

ヨハネ2111節にも別の数字がある。魚が153匹とれたと言っているが、こんなに細かい数字を残そうとしたのはなぜだろうか?実は昔は、漁師の間では、海の中に存在する魚の種類の数が153種類だと信じられていたのである。メッセージははっきりしている。イエスは世界のあらゆる国々、人種、国籍の人々を救いに来た、ということである。

聖書に出てくる数字すべてが象徴的であるというわけではないが、数字が出るたびに、この数字は数量を指しているのか、メッセージを含んでいるのか問わなければならないのである。


第三の意味:メッセージ(ゲマトリア的な意味で)

ヘブライ語とギリシャ語では、文字に数量的な価値がある。たとえば1はA、2はBといったように、である。
文字と組み合わせて作られる数字をゲマトリアと呼ぶ。
言葉にそれぞれの数字が隠されているかもしれないのである。聖書はこうしたゲマトリア的数字の例をいくつも抱えている。

たとえば、イスラエルの民がエジプトから脱出した時の男性の数は、女性と子供たちを数えずに603550人だったと言われているが、このフレーズ「イスラエルのすべての子ら」のヘブライ語文字の組み合わせを見ると、(rs kl bny ysr´l)その数値的な価値をあてはめると、ぴったり603550になる。そこで、この数字は「イスラエルのすべての子ら」が脱出したということを述べるのである。

マタイ117節は、イエスの先祖を三段階に分け、それぞれが14代になるという。けれどこんなに少ないということは不可能である。マタイは430年間続いたエジプトでの奴隷状態をカバーするのにたった三人の名前しか据えないのである。ここで生じたのは、ダビドという名を表そうとしたことにある(D=4 + V=6 + D=4 = 14)。そしてダビドの子孫から救世主が来ることが待ち望まれていたので、マタイ福音史家はイエスが「ダビデの三倍」、(3は完全を示すので)完全なメシア、ダビデの本物の子孫であることを言おうとしたのである。

こうしたゲマトリア的な数字で一番よく知られているのは、黙示録13章18節に見られる有名な666である。黙示録自体、これはある人の数字について述べるものであるとはっきり記している。その人というのは、皇帝ネロの事である。もし「皇帝ネロ」をヘブライ語で見ると N=50 + R=200 + W=6 + N=50 + Q=100 + S=60 + R=200 = 666になる。

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