2013年11月14日木曜日

回勅「ルーメン・フィデイ(信仰の光)』18項の訳

18 
 イエスが信仰に導く完全な状態には、もう一つ別の側面があります。信仰にとって、キリストは、神の愛の最大の表現である方として信じる対象であるばかりでなく、信じることができるように、わたしたちと一つになってくださる方なのです。信仰はイエスを見るだけにとどまらず、イエスの視点で、その眼差しをもって見ることなのです。これはそのものの見方への参与なのです。人生の様々な環境では、自分たちよりもよく物事を知っている自分以外の人を当てにします。家を建てる際には建築家を当てにしますし、治療のための薬をもらうには薬剤師を当てにし、法廷で弁護してもらうためには弁護士を当てにします。同様にわたしたちは、神さまのことについて信ぴょう性のある専門家を必要としています。その神さまの息子であるイエスは、わたしたちに神さまの事を説明してくださる方として自己を紹介しています。キリストの生活は、その父を知る方法や父との完全な関係を生きる生き方を含め、人間の経験に、わたしたちも入ることのできる新しい空間を開きます。信仰を介してのイエスとの個人的・人格的な関係の重要性は、ヨハネが様々な形で用いる「信じる」という動詞に反映されています。イエスがわたしたちに言っておられることは真実「だと信じる」のに合わせて、聖ヨハネはイエス「を信じる」こと、またイエス「に信頼する」ことについて触れています。イエス「を信じる」のは、イエスが本当の方だということで、その言葉や証しを受け入れる時です。イエス「に信頼する」のは、愛を通して彼と一致し、長い歩みを通して彼について行きながら、わたしたちの人生に個人的・人格的に彼を歓迎し、彼を当てにする時です。

 わたしたちが彼を知り、迎え入れ、彼に従うことができるようにと、神の子はわたしたちの肉体をその身に受け、そのようにして、一つの道、時の中での歩みを介して、父の展望は人間のあり方にも実現されました。キリスト者の信仰は、み言の受肉への信仰であり、また肉体におけるその復活への信仰なのです。ナザレのイエスにおいて人となられた神の子への信仰は、現実とわたしたちとを隔てるものではなく、わたしたちがその深い意味をくみ取り、神がどれほどこの世を愛し、どのようにしてたゆむことなくご自身に向けてこの世を導かれるかを発見することを可能にします。そしてこのことが、一キリスト者をして、地上での歩みをまだまだより密度の高い仕方で献身し、生きるようにと導くのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿