2013年9月6日金曜日

ギリェルモ・サントメ神父による霊操 第一週、第二日目



第一週:第二日目

「ひれ伏しの祈り」
「ひれ伏しの祈り」では、地面に顔をうつぶせし、「この罪人を憐れんでください」と願います。詩篇51編の最初の部分を思い返すこともできるでしょう。「わたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」(詩篇51編6節)。また他の詩篇:「わたしの魂は地の塵に着くほど蔑まれ、わたしの体は地面に貼りついています(我らの魂は塵に伏し、腹は地に着いたままです)」(詩篇44編26節)。
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テーマ:生活を秩序だてる(II
 十字架の聖ヨハネはこのテーマに13章を割いています(『カルメル山登攀』の第一部)。その第11章にこのようにあります。「どのような習慣であっても、執着は成長にとってとなります。・・・鳥は、紐が(細く)一本であってもつながれていれば、飛びません。断ち切るのがいかに容易であるとしても、切ってしまわない限り、飛び立てないのです!」。
 また、「コバンザメ」についても語っています。帆船の進みを留めてしまう抵抗の強い魚です。小さな魚なのに、港につけなくしてしまうのです。そして世主アについて語ります。感謝のしるしとして「呪詛」がかからないように言いつけを守るようにと言われるところです。領有したものはすべて神に属するものです。恵理子は陥落しました・・・けれど、そこに何かが残っていました。そしてそれは神の目には面白くありませんでした。
 神の一致に入るには、死ななければなりません。一人ひとり、〈自分の中で死ななければならないもの〉の個人的なリストがあります。隠れた弱さがあります。「執念」があります。嗜好品、好みのつてがあります。なぜ自分の生活がうまく機能しないんだろうか?という時がありますが、たったひとつの執着が生活全体を台無しにするのです。これは「テキトーな生き方」の問題です。大げさに言っているわけではありません。思いつきでもありません。物事の本質と同じです。誠実さと真実は、テキトーには捧げられません。生活の中でできるだましは、霊におけるいのちにおいては効かないのです(マラキ1章6―14節)。
 十字架の聖ヨハネは、13章を終えるにあたり、簡素だけれど深い平韻詩に要約しています。

どんな「何か」も「すべて」の妨げ
「何かにおいて回復したいことがあるならば
 すべてに対して身を寄せるのをやめよ。
 すべてからすべてに至るためには、
 すべてにおいてすべてから自己を否定するよう求められているのだから。
 そしてすべてを手に入れそうになったら、
 それを一切求めずに手にしなければならない。
 もしすべてにおいて何かを手にしたいならば、
 自分の宝は純粋には神のうちにないのだから。」

 誰も二人の主人に(同時に)使えることはできません。沖に漕ぎ出さなければなりません。
 ヨハネ・パウロ二世は、マシャード枢機卿を任命するにあたりこう言った。「人間を紡いでいくもの、もろもろの夢、それは希望と恐怖です」。人のいのちは、誰がより多く希望を紡ぐのか、恐怖を紡ぐのかという、一種の賭けです。
 「わたし」というものは次のようなもので強奪され、無秩序になっています。
1.  形を崩す幾千万もの情報によって。あらゆる真理が相対的にされています。
2.  たくさんの混乱によって。懐疑主義、冷笑、嘘など。
3.  受けているほどにそれだけの情報についての判断をしないことによって。よい情報と悪い情報の違いを付けない。
4.  たくさんのトリビな(取るに足りない)ことによって。その場で役立つことにしか興味を持たない。

 

結び:

聞くこと:神を聞き、自分の心の声を聞く。立ち止まること:進むのが速いので。評価すること:霊的な意味で脈拍を測る。
自分のうちにある人間的能力とキリスト者としての能力をすべて改善することができるかもしれません。それは自分の全生活にとっても、わたしを取り囲む人、わたしたちの周囲の環境にとっても善いことでしょう。
何か書いてください。
感謝をこめて天使祝詞を一回唱えてください。

ギリェルモ・サントメ神父による霊操 第一週、第一日目



第一週:第一日目

 

『お辞儀の祈り』
 両足で立ってすることができますが、キリストの前にへりくだって頭を下げお辞儀をします。わたしたちの全存在がお辞儀をするかのようにしなければなりません。「あなたを畏れる者にあなたは慈しみを注がれる」(ユディト16章15節)。「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」(マタイ8章8節)。聖ドミニコは修道者たちに、十字架の前を通る時にこのようにするようにと教えていました。そうして死にいたるまでへりくだられたキリストが、へりくだったわたしたちをも見てくださるためです。
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テーマ:生活を秩序立てる

それぞれの人生にはそれぞれの道筋があります。「神に向かっていく人の道筋」です。これは、失敗や困難を伴って一歩一歩ものになっていくのです。
霊操は一つの方法論です。それは秩序立てるための療法です。シンプルに行われるのがよろしいでしょう。「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」(ルカ11章34節)というように。区別するために「明るい」ことを、識別する、と言います。
何度もわたしは自問しなければなりません。わたしはどこに行くのだろう?何になるために?東洋の禅の実践は次のようであるように、と繰り返し言い聞かせています。自分がしていることをし、いるところにいる というように。
男も女も、創造されたのは神をたたえるためです。
「ジェット機」の事故で、400人の死者が出ました。『人工水平儀(ジャイロスコープに基づく航法計器)』がうまく機能していなかったのです。操縦士は水平かどうかについて翼の角度を確認しようとしたのです。水平儀はその位置を示さず、バランスを失ってしまいました。水平儀は秩序です。どのような機能障害も、無秩序と呼ばれます。わたしたち一人一人の中にも、無秩序・障害があります。
愛情、傾向、生活様式など、あるものははっきりしていて、自分でよく知っていることでしょう。隠れているものもあるかもしれません。それには気づきません。そこに危険があります。障害・無秩序でよりひどいのは、中途半端なことです。妥協、癖、悪習慣などがあります。自分の「無秩序・障害」を見つけるものの、そこで留まってしまい、中途半端に進むことがあります。「一つのろうそくは神に、もう一つは悪魔に」といったように。
聖パウロにとって、これははっきりしていました。いつでも「然り(神の呼びかけに対する『はい』という同意)」でした(IIコリント1章15-21節)。

このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送りだしてもらおうと考えたのでした。このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。

ほんものの選びは明瞭で、決定的、具体的です。中途半端なインクではきれいに書けません。
時々わたしたちは驚きます。物事がうまく進まないのです。わたしたちの生活に不妊症が、混乱が生じます。原因はなんでしょう。中途半端に、意味なく生きることにあるのです。
ボンヘッファーによる「弟子であることの何が大変か」によれば、こうあります。「自分の生活で、神に捧げるのを拒んでいる部分がありますか?低俗な情熱や、敵意、何らかの欲望や野心、あるいは自分の主張など、ありますか?もしあるならば、聖霊を受けなかったとしてもおかしいと思わないでください。あなたにとって祈りは難しいものになるでしょう。まずは、その罪を拒絶しなさい。そうすれば信仰を取り戻すことができるでしょう」。
神から自分で自分を隔てている何らかの局面が自分の中にあるならば、どうして神との一致に入ろうとなどすることができるでしょう?
自分の生活のある部分で強情になっているところがあるならば、信仰というのは難しいものです。水は沸点に到達しないと沸騰しません。厳しい決まりでしょうか?違います。単にそういうものだということで、他の方法ではありえないだけなのです。中途半端はないのです。「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(ルカ14章33節)。キーワードは『一切』です。何かを残そうとするならば、出し惜しみしてケチになり、ぐらつくのです。
この「ちょっとだけ」は何か弱さや、失敗、つまずきといった刹那的なものを言おうとしているわけではありません。わたしたちは皆、こういったことだらけです。それは限界であり、人間の性(さが)なのです・・・。しかし危害を及ぼすのは、曲がった意志や、根の張った中毒依存といった、常習の執着なのです。
何回か転んでも歩むのを妨げることにはなりません。けれど道から逸れることは、そうです。個人的に、あるいはグループとして、組織として、目的地に到達するのを妨げるのです。そして元に戻すのがどれだけ大変なことか!!!
この最初の黙想で、この初日に、自分の中で曲がったものが何かあるかを見出すとよいでしょう。しばしばわたしたちを取り囲んでいる人たちには見えているものです。それを強情に認めなかったり、見ようとしなかったりする危険があります。
ほんのちょっとのことで、多くのものを得られずに過ごしていることがありますね。

 メモ:何かノートに書きつけることは、とてもよいことです。

 内省を終える時に、天使祝詞を唱えてください。

ギリェルモ・サントメ神父による霊操 はじめに



霊操
司祭:ギリェルモ・サントメP. O.P. 
santome@dominicos.org

はじめに:
これは「導き」の道になりえます。個人にしても、夫婦においても、神との関わりにおいて前に進みたいと望むならば、またその生き方をより良いものにしたいと望むならば、です。
回心の手引きには次のようなものがあります。
「よい道に従うものには、神の救いが示される。」
すべてのことがより良い方向に進みます。
わたし自身の過ちを地に埋めましょう。
わたしたちの受けた『タラントン』を神の計画のために投資しましょう。あなたこそが偉大な主人公なのです。
·       四週間、日々の活動を手放さずに、つまり日常を続けながら。
·       一日一時間の内省の時間をもつこと。
·       いつも聖書を使うこと。
·       何かノートに書き留めることが勧められる。
·       ふさわしい、静かな場所を探すこと。聖堂、庭、公園、等々。理想的な時間帯は明け方。
·       「たまに」一人の司祭と会話することが勧められる。質問、疑問など。
·       それぞれ自分の祈りのスタイルを見つけること。
·       だれもが白紙で、そこにこの経験を書きつけていくつもりで。
·       もし神がここで示唆しているものと違う祈り方のインスピレーションを与えるならば、そちらの方で続けなければなりません。そのときは、このメモを使わずに行ってください。

四週間の間 続けること:
1.  毎日の祈りの時間。
2.  何らかの断食(節制);(例)朝ごはんの時のコーヒーを抜く、
満腹するまでは食べない、夕飯をフルーツだけにする、など。
3.  どんなに少なくても、施しの習慣をやめない。

毎日すること:
・はじめ方:
姿勢を整える。最初の九日間、九つの姿勢について学びます。聖ドミニコの祈りの九様式です。一度学べばあとは自分にとって一番好きな、一番リラックスできる様式を使うことができます。大切なのは神との関わりに入ることができることです。
大切なのは、体をもってしても祈るこの体験を経ることです。
はじめるにあたって、神の現存のうちにいることを感じることは、よいことです。神がここにおられる、神はわたしを愛している、神はやさしいまなざしを自分に注いでいる、と。
      主の祈りを一回、ゆっくり祈る:読みながら行うのが望ましい。
      礼拝する:謙遜です。自分に何かが足りないことを感じます。神のあわれみの玉座の前に近づいているのだ、と。
      今日という日に感謝する:「聖霊、来てください」と祈る。(典礼聖歌352番『聖霊の続唱』を唱えたり歌ったりするのも可)。日々の聖書個所の読書を始める。好きなように望むだけ間を取りながら、落ち着いた読書となるようにしましょう。居心地のいい個所が来たら留まってください。繰り返し何か感じるように努め味わってください。一言で言えば、その個所を楽しむ、ということです。そういうことを体験するならば、それは恵みですから、それ以上先に読み進めなければならない理由がありません。充分です。翌日、ふさわしいと思われるところから続ければいいのです。繰り返すことは悪いことではありません。正反対です。わき水が見つかったら、もし渇いているならば、そこに留まらなければならないものです。もし善意をもってこうした体験をしようとするならば(そうだとは思うのですが)、何回か同様の体験をすることもあり得るものです。

終わり方:
 沈黙のうちに礼拝する。自分のわたしたちを愛する主につつましやかにささげられた空っぽの手の中で織り込んでできてきたものを眺めながら、沈黙のうちに礼拝しましょう。
 ゆっくりと天使祝詞を聖母にささげ、一日中自分と共に歩んでもらえるように願いましょう。

2013年7月24日水曜日

WYD開会ミサでのオラニ枢機卿の説教

愛する青年の皆さん、

 教会の様々な指導者の皆さん、市や軍の権威の皆さん!最初のプロトコルに名指されているみなさん。愛する神の民!

  2013年リオのワールドユースデーが始まっています!この素晴らしい街はみなさんの滞在でさらにもっと美しくなりました!大いなる喜びがわたしたちに押 し寄せています。なぜなら、あなたが、君がここにいるからです。地球のあらゆるところから皆さんはやって来ました。この数日、ここは皆さん全員の家庭にな ります。君はこの歴史の美しく重要な時に私たち家族の一部を成すのです。

 誰もが旅行の遅れや場所の異動で疲れながらやって来ました。今回は主であるイエス・キリストといるために、その弟子として生きるためです。これはわたしたちの体験に、宣教師の熱意をもたらすでしょう。行って、弟子としなさい!

  リオ・デ・ジャネイロの聖セバスチャン大司教区は、2011年8月にマドリッドでのミサの終わりの宣言で、今は補佐司教である当時の教皇ベネディクト十六 世によってなされた選びという大きな責任を任されました。その選びと指導、WYDのテーマと励ましに感謝しています。わたしたちは今も彼が祈りにおいてわ たしたちについてきており、マスメディアを通してわたしたちと心を一つにしていると知っています。彼に、わたしたちの情愛に満ちた挨拶を送ります。

  そうは言っても、摂理的に、26年たって、WYDのラテン・アメリカへの帰還の、二度目の旅行となる予定でした。それが、ラテン・アメリカの歴史で初めて の教皇、パパ・フランシスコの初めての使徒的訪問を歓迎することになり、聖セバスチャンの地で教会のいのちにおけるこの美しく重要な時を司式することに なったのです。月曜日に、この町の通りで彼を迎えましたが、来る木曜日には、この場所で、おごそかに彼を公的に迎えることは大きな喜びです。ラテンアメリ カの歴史で初めてのパパは、パパとしてラテンアメリカの地を踏むにあたり、この数日ワールドユースデーという聖地と化したこの町に降り立つのです。

  今週は、リオは生きた、若い教会の中心と化します。あらゆる道はわたしたちをここへと招きいれます。皆さんは世界の様々なところから、分かち合われた弟子 としての生き方の信仰と喜びを持ってきました。この幸せはわたしたちを力づけ、他の青年たちにわたしたちを近づけるようにと招き、あらゆる国々でわたした ちを宣教師にします。他の人に与えうる最高のプレゼントは、わたしたちを満たし、いつも兄弟愛に満ちた対話の中で自分自身を与え、愛するようにと促すキリ ストの現存に他ありません。

 ここで、わたしたちはまた、ほぼ二年ほどこの国のあちこちを回っていたワールドユース デーのシンボルに出会います。この中心的な式典で今や据えられている十字架とマリアの若さのイコンです。これらのシンボルが2011年の8月にスペインの マドリッドで手渡された時、この国の青年たちを感動が捉え、熱心にこの期間それぞれの共同体にこれらを迎えてきました。

  わたしたちと共に、市を通して、ワールドユースデーの守護聖人や取次者たちの聖遺物が回っています。それはどの時代にも、どこにでも聖なるものとされた青 年たちがいることを思い出させてくれます。わたしたちはこうした人々の家族の一員です。彼らはキリスト者の模範であり、今日の青年層のためにわたしたちと 共に祈っています。

 和解熱意があらゆる端々まであり、福音の社会的結果をもって、本物のキリスト者としての生活の証しに一致しようとする若いキリスト者の顔つきを示さなければなりません。

 わたしたちは新しい世界の主役となるように呼ばれています。わたしは、みなさんが自分の町や国でこれを行うことを確信しています。世界は君のような若い人を必要としているのです!

  ちょうど先ほど、福音を聞きました。イエスがマタイを弟子になるようにと呼ぶところです。そして彼を呼ぶにあたって、憐れみを経験するために罪びとの皆さ んが到着したばかりだと告げられます。信仰の義務に呼ばれている人々の間にいるわたしたちのところに来たのです。パウロがローマ人たちに言っている通りで す。「わたしたちは使徒となる召し出しの恵みを受けました。わたしたちは召し出しによって神の聖なる愛されるイエス・キリストの弟子となるように呼ばれた のです」。

 第一朗読では、詩篇と共に、わたしたちの答えが心構えをもってなされなければならないと言っています。 「わたしがここにいます!わたしがここにいます!あなたの僕は聞いてますから語ってください!それはもうわたしたちは、喜んで、主のみ旨を行うために来た のです!(詩篇39/40)。

 この聖書の表現こそが、わたしが、今日もいつまでも皆さんの唇と心のうちに会ってほしいと望んでいることです。主よ、わたしたちがここにいます!マタイと同じように、皆さんも挑戦と喜びに満ちた神への『はい』という答えの結果のために用意できています。

  それは海岸のこの素晴らしい風景の舞台にわたしたちを集めてくださったあの方の呼びかけです。この舞台は温もりに満ちた抱擁を差し出すあがない主キリスト のうちに、コパカバーナのマリアへの最初の捧げにふさわしいその名を受けています。海、砂浜、岸辺、そして人々はマタイ以外の召し出しを思い出します。こ の状況はイエスに従うようにと呼ばれたあの人々に浜辺に残された小舟へと導きます。今日この頃では、わたしたちは復活されたキリストに従うように呼ばれて います。

 師であるイエスは、深みのある水、わたしたちの洗礼の水の中で泳ぐようにと招いています。そしてこれは信 仰年の心臓部にある美しい国際的な集いなのです。信仰年は、わたしたちがキリスト者の共同体において自分の献身を刷新するのにぴったりの時です。わたした ちは多元化し、この時代の変遷期における多くの問いかけがありながらも、聖霊の働きによって導かれた信仰の熱心と一貫性をもった深い信仰を生きるようにと 招かれています。

 マタイの応えをよく考えると、わたしたちが師イエスにポジティブに答えるために立ち上がる時に、 イエスはマタイがしたのと同じ答えを聞くのです。イエスはわたしたちの家で夕食をし、わたしたちのいのちを変えるために来ます。第一朗読のサムエルにとっ て、呼びかけは夢のようでしたが、神の声を識別することのできる仲間の手伝いで、それが本当のものであることを知ることができました。宣教の歩みには識別 が欠かせません。ユートピアのような夢もあります。それも、わたしたちの側にいて神の声を認識できるようにしてくれる誰かの助けによります。パウロのよう に、わたしたちはキリストのしもべです。召し出しと神の福音によって選ばれた使徒たちの僕なのです。

 愛する青年の 皆さん、大司教区は皆さんを迎えるようにとの神の呼びかけを感じました。わたしたちは皆サムエルやパウロ、マタイのように答えています。わたしたちがここ にいます!わたしたちがここにいます!と。わたしたちの小教区も、家庭も、学校も、司牧協会も、運動も、奉仕のグループもです。わたしたちの家は皆さんの 家です!この今という時に、愛の革命があります。他の人というのは、わたしたちにとってはキリストなのです!他の人というのはわたしたちの兄弟です。世界 じゅうに鳴り響きますように。わたしたちは兄弟による世界の建設に同意して生きるようにわたしたちは呼ばれているのです。わたしたちは一人ひとりが、そし て全員がキリストの腕の中で歓迎されていると感じてほしいと思っています。キリストはすべての人を、神の国の建設のうちに彼と共にいるようにと呼んでいま す。一緒に行きますか?

 キリストはわたしたちに頼みます。おいで、仲間たちよ!と。この川を通って、わたしたちが いくところで兄弟愛を広めることを通してあがないにの臨在を示す代理人、ペトロの後継者の歩みが入ってきますように。わたしたちが世界に人のあがない主か ら流れ出る聖性を生きることを打ち立てながら平和と調和の死者となることができますように。
 
 そして師の周りで、この地球のあらゆる隅々にいる他の若い弟子たちと共に「主よ、ここにいるのは何とよいことでしょう!」(マタイ17章4節)と言いましょう。

 新しい世界に献身するためにイエス・キリストの証しであるこの町を通って歩くこと、「目覚めた昼間のようにキリストの喜びと平和をもって全世界を感染させること」です。神の計画の光に向かって世界の刷新において働きながら。

  この力強い長い巡礼をわたしたちは生きています。なぜならイエス・キリストがわたしたちの間に生きておられるからです。わたしたちにその聖霊を与え、わた したちはこの現実を生き、接触でき、理解できる他の人々にこれを伝えるために呼ばれています。イエス・キリストはいつもそこにいます。特に真理、正義、平 和を求めている青年のために(そしてイエス・キリストのうちにのみこれを見出すことができるのですが)。

 愛する青 年の皆さん、あなたたちは価値観の危機に解決を待ち望んでいる社会にとって希望の賜物なのです。皆さんは信仰を生き次の世代にそれを伝える新しい世代を形 作るようにと呼ばれています。フレッシュな(出来立てほやほやの)信仰の経験をするようにとわたしたちを招いているのです!共同体での参加、熱心になる機 会というのは、わたしたちの兄弟姉妹と共にあり、別の世界はありうる、と宣言しています。一番の巡礼者は既にわたしたちの間にいます。教皇、パパ・フラン シスコですが、この数日の旅行でわたしたちと共にいることになります。愛する青年の皆さん、キリストに心を開くのを恐れないでください!

  乗り越えられなければならない障壁と不正はたくさんあります。壁と障害のあるところに橋を建設しましょう。世界は、皆さんを通して、連帯、参加、あがない 主キリストの愛の受容の証しとならなければならない街なのです。もう光に満ちた朝に向かう態度になっていく信頼と希望に目覚める時なのです。

  マリアには、多くの呼称がありますが、ここブラジルでは、アパレシーダのマリアの名で、一番の守護者として呼ばれています。また、ペーニャの聖母、ナザレ の聖母もあります。マリアはあらゆる青年にとって、同伴者であり母であったし、今もそうです。彼女に皆さん一人ひとりを委ねます。そうしてわたしたちに示 されるキリストを受け入れ、新しい福音化の弟子であり宣教者として世界を歩み、希望の新しい曙が目覚める時の朝の守衛のように、新しい世界の主役となって ください。キリストは復活されました。そして皆さんは前進しなさい!聖霊がわたしたちをこの人生において照らし、御父に人々を連れていくわたしたちの使命 を理解できるための光を下さいますように。

 今日、旅が始まります。あがない主キリストはわたしたちに言います。 「おいで、仲間たちよ!」と。旅の間に、「主よ、お話し下さい。あなたの僕は聞いております!」ということを学んでください。そして主に聞くたびに、主は わたしたちに「宣教師になりなさい(福音をのべ伝えよ!)」と言います。「言って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と。そしてわたしたちはこう答え ましょう。「主よ、わたしたちがここにいます。わたしをお遣わし下さい」と。

2013年5月15日水曜日

六日目:聡明=intellectus

J神学生による分かち合い

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 今日のノベナのテーマは皮肉と言えるかもしれません。誰かが「理解」について語る時、聞き手は、語り手が少なくともそのことばや言語を、人に何を言おうとしているかを分らせようとして使うことを期待するものです。しかも、わたしは皆さんの前でこの聖霊の賜物のひとつについて分かち合いを始めるにあたり、まさに理解の本質を裏切る言語でこれを行うからです。けれど、そこで、再び、信仰のほとんどのことがそうであるように、理解は頭でするのではなく心でするものなのです。これがわたしの無礼がただの愚かな行為ではないようにと皆さんの赦しを願えるのではないかと幾分かわたしを励ましてくれるものです。

 パウロのコリント人への第二の手紙はわたしたちに理解とは何かを語っていません。けれどこの賜物の定義をわたしたちに与えないものの、わたしたちの使命、わたしたちの信仰、つまり、キリストのためにわたしたちが苦しむ挑戦や困難は決して無駄ではないということを理解するために必要な明言と慰めをもたらします。パウロはわたしたちがしなければならない仕事はあわれみの行為によって与えられ、このためにわたしたちは赦す愛によって、残る愛によって燃え立つ証し人となる、ということを思い出させています。

 様々な仕方で、わたしたちは初期キリスト者共同体とそれほど違わない、とわたしは思います。わたしたちはもはや当時のようには迫害を受けてはいませんが、だからといってわたしたちの務めがもっと簡単になったかというとそうでもありません。わたしたちは今もなお、キリストの死をわたしたちの体に運び、彼のいのちがわたしたちのうちに示されるようにするために呼ばれているのです。たとえわたしたちの教会においてわたしたちに耳を傾ける人が少なくなり、また消極的になったとしても、たとえわたしたちの学校での宣教の努めが疲れを伴いほとんど報いがなくても、たとえわたしたちが勉強しなければならない文法と語彙の本の行列が果てしなく見えても、わたしたちは決して失望しません。なぜならわたしたちはこの旅路で決して一人ではないと理解しているからです。

 これがおそらく、理解の賜物がどのようなものであるかを語るものなのでしょう。わたしたちの信仰、わたしたちのいのちは、わたしたちをまず選んでくださった愛を燃料として燃えています。そしてそのためわたしたちはわたしたちを救ってくださったのと同じ力によって動かされて行動をするのです。なぜならまさに、永遠のいのちにわたしたちを定める憐みを映すこと以外に行動する方法は本当にないからです。このことを理解するためこれを信じるため、このために愛するために・・・。それはすでにわたしに充分な恵みであり、わたしはけっして欠けることがないのです。

五日目:知識=scientia