第一週:第一日目
『お辞儀の祈り』
両足で立ってすることができますが、キリストの前にへりくだって頭を下げお辞儀をします。わたしたちの全存在がお辞儀をするかのようにしなければなりません。「あなたを畏れる者にあなたは慈しみを注がれる」(ユディト16章15節)。「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」(マタイ8章8節)。聖ドミニコは修道者たちに、十字架の前を通る時にこのようにするようにと教えていました。そうして死にいたるまでへりくだられたキリストが、へりくだったわたしたちをも見てくださるためです。
テーマ:生活を秩序立てる
それぞれの人生にはそれぞれの道筋があります。「神に向かっていく人の道筋」です。これは、失敗や困難を伴って一歩一歩ものになっていくのです。
霊操は一つの方法論です。それは秩序立てるための療法です。シンプルに行われるのがよろしいでしょう。「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るい」(ルカ11章34節)というように。区別するために「明るい」ことを、識別する、と言います。
何度もわたしは自問しなければなりません。わたしはどこに行くのだろう?何になるために?東洋の禅の実践は次のようであるように、と繰り返し言い聞かせています。自分がしていることをし、いるところにいる というように。
男も女も、創造されたのは神をたたえるためです。
「ジェット機」の事故で、400人の死者が出ました。『人工水平儀(ジャイロスコープに基づく航法計器)』がうまく機能していなかったのです。操縦士は水平かどうかについて翼の角度を確認しようとしたのです。水平儀はその位置を示さず、バランスを失ってしまいました。水平儀は秩序です。どのような機能障害も、無秩序と呼ばれます。わたしたち一人一人の中にも、無秩序・障害があります。
愛情、傾向、生活様式など、あるものははっきりしていて、自分でよく知っていることでしょう。隠れているものもあるかもしれません。それには気づきません。そこに危険があります。障害・無秩序でよりひどいのは、中途半端なことです。妥協、癖、悪習慣などがあります。自分の「無秩序・障害」を見つけるものの、そこで留まってしまい、中途半端に進むことがあります。「一つのろうそくは神に、もう一つは悪魔に」といったように。
聖パウロにとって、これははっきりしていました。いつでも「然り(神の呼びかけに対する『はい』という同意)」でした(IIコリント1章15-21節)。
このような確信に支えられて、わたしは、あなたがたがもう一度恵みを受けるようにと、まずあなたがたのところへ行く計画を立てました。そして、そちらを経由してマケドニア州に赴き、マケドニア州から再びそちらに戻って、ユダヤへ送りだしてもらおうと考えたのでした。このような計画を立てたのは、軽はずみだったでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって「然り、然り」が同時に「否、否」となるのでしょうか。神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。
ほんものの選びは明瞭で、決定的、具体的です。中途半端なインクではきれいに書けません。
時々わたしたちは驚きます。物事がうまく進まないのです。わたしたちの生活に不妊症が、混乱が生じます。原因はなんでしょう。中途半端に、意味なく生きることにあるのです。
ボンヘッファーによる「弟子であることの何が大変か」によれば、こうあります。「自分の生活で、神に捧げるのを拒んでいる部分がありますか?低俗な情熱や、敵意、何らかの欲望や野心、あるいは自分の主張など、ありますか?もしあるならば、聖霊を受けなかったとしてもおかしいと思わないでください。あなたにとって祈りは難しいものになるでしょう。まずは、その罪を拒絶しなさい。そうすれば信仰を取り戻すことができるでしょう」。
神から自分で自分を隔てている何らかの局面が自分の中にあるならば、どうして神との一致に入ろうとなどすることができるでしょう?
自分の生活のある部分で強情になっているところがあるならば、信仰というのは難しいものです。水は沸点に到達しないと沸騰しません。厳しい決まりでしょうか?違います。単にそういうものだということで、他の方法ではありえないだけなのです。中途半端はないのです。「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(ルカ14章33節)。キーワードは『一切』です。何かを残そうとするならば、出し惜しみしてケチになり、ぐらつくのです。
この「ちょっとだけ」は何か弱さや、失敗、つまずきといった刹那的なものを言おうとしているわけではありません。わたしたちは皆、こういったことだらけです。それは限界であり、人間の性(さが)なのです・・・。しかし危害を及ぼすのは、曲がった意志や、根の張った中毒依存といった、常習の執着なのです。
何回か転んでも歩むのを妨げることにはなりません。けれど道から逸れることは、そうです。個人的に、あるいはグループとして、組織として、目的地に到達するのを妨げるのです。そして元に戻すのがどれだけ大変なことか!!!
この最初の黙想で、この初日に、自分の中で曲がったものが何かあるかを見出すとよいでしょう。しばしばわたしたちを取り囲んでいる人たちには見えているものです。それを強情に認めなかったり、見ようとしなかったりする危険があります。
ほんのちょっとのことで、多くのものを得られずに過ごしていることがありますね。
メモ:何かノートに書きつけることは、とてもよいことです。
内省を終える時に、天使祝詞を唱えてください。
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