第一週:第二日目
「ひれ伏しの祈り」
「ひれ伏しの祈り」では、地面に顔をうつぶせし、「この罪人を憐れんでください」と願います。詩篇51編の最初の部分を思い返すこともできるでしょう。「わたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」(詩篇51編6節)。また他の詩篇:「わたしの魂は地の塵に着くほど蔑まれ、わたしの体は地面に貼りついています(我らの魂は塵に伏し、腹は地に着いたままです)」(詩篇44編26節)。
テーマ:生活を秩序だてる(II)
十字架の聖ヨハネはこのテーマに13章を割いています(『カルメル山登攀』の第一部)。その第11章にこのようにあります。「どのような習慣であっても、執着は成長にとって害となります。・・・鳥は、紐が(細く)一本であってもつながれていれば、飛びません。断ち切るのがいかに容易であるとしても、切ってしまわない限り、飛び立てないのです!」。
また、「コバンザメ」についても語っています。帆船の進みを留めてしまう抵抗の強い魚です。小さな魚なのに、港につけなくしてしまうのです。そして世主アについて語ります。感謝のしるしとして「呪詛」がかからないように言いつけを守るようにと言われるところです。領有したものはすべて神に属するものです。恵理子は陥落しました・・・けれど、そこに何かが残っていました。そしてそれは神の目には面白くありませんでした。
神の一致に入るには、死ななければなりません。一人ひとり、〈自分の中で死ななければならないもの〉の個人的なリストがあります。隠れた弱さがあります。「執念」があります。嗜好品、好みのつてがあります。なぜ自分の生活がうまく機能しないんだろうか?という時がありますが、たったひとつの執着が生活全体を台無しにするのです。これは「テキトーな生き方」の問題です。大げさに言っているわけではありません。思いつきでもありません。物事の本質と同じです。誠実さと真実は、テキトーには捧げられません。生活の中でできるだましは、霊におけるいのちにおいては効かないのです(マラキ1章6―14節)。
十字架の聖ヨハネは、13章を終えるにあたり、簡素だけれど深い平韻詩に要約しています。
どんな「何か」も「すべて」の妨げ
「何かにおいて回復したいことがあるならば
すべてに対して身を寄せるのをやめよ。
すべてからすべてに至るためには、
すべてにおいてすべてから自己を否定するよう求められているのだから。
そしてすべてを手に入れそうになったら、
それを一切求めずに手にしなければならない。
もしすべてにおいて何かを手にしたいならば、
自分の宝は純粋には神のうちにないのだから。」
誰も二人の主人に(同時に)使えることはできません。沖に漕ぎ出さなければなりません。
ヨハネ・パウロ二世は、マシャード枢機卿を任命するにあたりこう言った。「人間を紡いでいくもの、もろもろの夢、それは希望と恐怖です」。人のいのちは、誰がより多く希望を紡ぐのか、恐怖を紡ぐのかという、一種の賭けです。
「わたし」というものは次のようなもので強奪され、無秩序になっています。
1. 形を崩す幾千万もの情報によって。あらゆる真理が相対的にされています。
2. たくさんの混乱によって。懐疑主義、冷笑、嘘など。
3. 受けているほどにそれだけの情報についての判断をしないことによって。よい情報と悪い情報の違いを付けない。
4. たくさんのトリビな(取るに足りない)ことによって。その場で役立つことにしか興味を持たない。
結び:
聞くこと:神を聞き、自分の心の声を聞く。立ち止まること:進むのが速いので。評価すること:霊的な意味で脈拍を測る。
自分のうちにある人間的能力とキリスト者としての能力をすべて改善することができるかもしれません。それは自分の全生活にとっても、わたしを取り囲む人、わたしたちの周囲の環境にとっても善いことでしょう。
何か書いてください。
感謝をこめて天使祝詞を一回唱えてください。
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