2013年10月4日金曜日

ギリェルモ・サントメ神父による霊操、第三週、第二日目



自分に一番役立つ姿勢と方法であなたの祈りを始めてください。短い祈りの何かを唱えることもできます。「聖霊来てください、その子らの心を満たして下さい」や他の、自分に役立つ祈りです。あなたの全存在が神の現存のうちにあるようにと努めることは善いことです。

テーマ:執着(II
マルコ1022節:「その人(青年)は・・・悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
この霊操の時間に、自分のメンタリティを観察しようとするのはよいことです。どのように物事を考え、どのように物事を判断するのか。だれもが具体的な概念をもっています。あるものは進化し、あるものはわたしたちのパーソナリティの形成に携わっていきます。世界がどうなってほしいと思っているか、自分がどのようになっていきたいか。健康についてどう考えているのか、お金について、愛情について、他者との関わりについて、自分はどう考えているのか。こうしたプログラムの責任者は誰なのか?
あなたのアイデアや振舞い方の多くは、あなたのご両親や、生きている環境や状況から来ています。あなたの体験している宗教もです。そうしたものすべてが、あなたのうちにあり、わたしのうちにあり、一人ひとりの人のうちにあるのです。そのことについて考えを巡らす、あるいはただ単に「考えてみる」のもよいでしょう。けれど主よ、あなたはわたしと共にいて、わたしにいつも付き合ってくださいます。
そしてこのように自問することができるでしょう。「わたしはどう感じているだろうか?」と。居心地良く感じることもあるでしょうし、苦しんでいるかもしれません。一人ひとりが一つの世界になっています。
他の人たちがあなたの望むようにふるまわないと、気分が悪くなります。好ましくありません。あなたの予定がいで物事が進むと、いやな気分になり、神経質になります。電車が遅れるとか、待ち合わせをすっぽかされるとか、テレビがうまく映らないとか。たしかにある人たちの存在が悲痛感をもたらすことはあるものです。いつも「自分のうち出した計算」、「自分のプログラム」に合うようにと、物事や人々を自分の〈なすがままに〉したい人がいるものです。プログラムにはめられた人たちが大勢います。自分の信念や、習慣、執着のプログラムにはめられた人たちが。
これには解決策はあるのでしょうか?もちろんあります。よいプログラムから最初のプログラムに変えることはできないでしょう。多くの忍耐の問題です。もしかすると何も変えてはならないことになるかもしれません。ありがたくない人と、ありがたくない状況に自分が立たされていることを想像してみてごらんなさい。あなたの「計算機」が操作し始めます。いらいら、もやもや、不快感、怒り…人や状況がこうした〈ネガティブ〉な状況の〈元凶となっている〉のではないのです。〈あなたにはめ込まれたプログラムなのです〉
その状況をいやな感じで過ごしている唯一の理由は、なぜならあなたのプログラムがその人やモノ、状況があなたに、あなたのプログラムに適合するとしつこく働きかけるから、それだけです(子どもが初めて学校に行く様子を外から眺めてごらんなさい。学校がやり方を変えてほしいと望みます。自分の家で体験してきたこととまったく同じであってほしいと思うのです。でも、本当は彼が変わらなければならず、新しい現実に適合していかなければならないのです)。ある「権威」にある人のことを覚えています。公式の式典が多く、そこにいなければなりませんでした。いつも神経質で、いつも居心地悪そうにしていました。わたしはいつもこの人にこう言っていました。自分の尺度に従ってすべてのことがなされるように望み、あなたが神経質でなくなるために、何年もの伝統に変わってほしいと望んでいるのか?と。けれど、わたしたちはこのように愚かなのです。もしこの真理を理解するならば、あなたの中に平和が生まれるでしょう。自己抑制が生まれるでしょう。世界を別の見方で見るようになるでしょう。だめです。あなたの「計算機」、あなたのプログラムを満足させるような望みではだめなのです。知恵の言葉を理解することができるでしょう。「下着を取っていこうとする人がいるならば、マントをも持っていかせなさい」。「一マイル歩かせようとする人には二マイル付き合いなさい」(マタイ54041節)。
本当の抑圧構造は〈人からもたらされるのではなく〉、「わたしの計算機」、わたしのプログラム、わたしの偏見から来るのです。強制収容所にいても幸福感を失わなかった人もいます。問題は内なる自由があるか否か…なのです。
これは〈執着〉の大きなテーマです。自分で自分を縛りつけます。わたしたちは人やモノ、概念に固執します。それがなければやりきれないと思いこみます。たしかにわたしたちの人生の一部を成すようになったその現実がなくなったらと考えるだけで不安になります。
わたしたちの願望が果たされない時に抱かれる不安。敗退するチーム、バスに乗り遅れること・・・日々の何千もの些細な物事がありますが、その多くはわたしたちを縛り付けています。それがわたしたちのパーソナリティを形成して来ているのです。
しかしながら、大いなる現実というのは、わたしたちを幸せにできる唯一のことは、プログラムを解除すること、縛りから自由になることにある、ということです。両目を開けば、自分が執着しているそのものは必要ではないことに気づくでしょう。誰かと死に別れると、もう二度と幸せになれないと信じ込むでしょう。けれど、その後でどんなことが起こりますか?いくらか時が過ぎるとどうなりますか?今このテーマを執筆しながら、世界的に有名な著作家の本を読んでいます。その方はがんで奥様をなくしました。カルワリオ(十字架の道)です。まるで世界が、特に愛情面での世界が、永遠に終わってしまったかのようでした。そして今は、それから数年たって、別の女性の友人と休暇に出かけ、愛情のある生活を送っています。両目を開いてごらんなさい。悪いのは執着です。それは事実ではないのです。それは現実ではないのです。それは信念です。わたしにプログラムされている頭の中の幻想なのです。世界はその人と共に終わることもなく、しばしばわたしたちの自由を奪う多くの現実をもって終わることもないのです。それは幻想です!!
執着がなければ、人々を腹の底から愛することができます。その人たちがいることで楽しくなり、あらゆるタイプの縛りから自由になります。
結び:これも〈恵み〉です。よい神と聖母がわたしたちを助けてくださいますように。天使祝詞一回。
注:こうしたことに関して、メモをいくつか取るとよいでしょう。

ギリェルモ・サントメ神父による霊操、第三週、第一日目



自分に一番役立つ姿勢と方法であなたの祈りを始めてください。短い祈りの何かを唱えることもできます。「聖霊来てください、その子らの心を満たして下さい」や他の、自分に役立つ祈りです。あなたの全存在が神の現存のうちにあるようにと努めることは善いことです。

テーマ:イエスさまに近づく(II
しばらくの間イエスの生活のエピソードを回想していきましょう。ルカ241335節です。
ナザレで受け入れられないイエスのことを思い出してきました。よく準備された霊操があったなら、それはこのナザレからのものでした。最良の説教者、準備された聴衆、共鳴。言葉づかいにおける一致。
けれど結果は得られませんでした。〈宣言〉を受けたがらなかったのです。神の言葉に開示しなかったのです。
エマオの弟子たちのことを思い出しましょう。
その二人ので使徒は、誰だったのでしょうか?
「彼らのうちの二人」、グループのメンバーです。その場限りの弟子ではなく、「わたしたちのうちの人たち」です。何らかの形で培われた人たちで、希望をもったことのある人たちです。彼らが絶望してしまいます。なぜなら〈何も起こらなかった〉からです。ここでどうすればいいのか?意味がない、と。
これは「福音伝達者」の普通の試練です。信仰を捨てるわけではないけれど、去ってしまう・・・普通の人になるために。他の人たちのように生活するために。
彼らが期待していたのは何か「曖昧でモヤモヤしたもの」でした。「起こったことすべてについて語り合っていました」(4節)。「自分たち同士で議論していました」(5節)。「悲しみに埋もれながら立ち止まった」(6節)のです。わたしから見て、こうした人たちはどう映るでしょうか?
苦々しい経験のようです。物事がうまくいかなかった時に起こるような議論をしています。誰のせいなのかを探し、わだかまりが残っています。彼らは友人でしたが、「揺らいでいました」。あまりに多くのことがうまくいかない時のわたしたちのことを考えることも出ます。わたしは継続するために苦しんでいる教会のあるムーブメントのリーダーたちのことを考えています。「死ななければならない(終わらせなければならない)ものごと」がある。まさにこの苦しみで傷つくことはわたしたちにとって〈誇り〉になるのですが、教会のために、福音化のためにわたしたちの生活を捧げた人々、多くの人たちがいますが、物事がうまくいかないのは胸が痛みます。もし関心がないなら、すぐに慰められるでしょう。それはそんなに大切ではなかったことのしるしです。このことはわたしたちを新しい問いへと導きます。
イエスは何をするのでしょう?
ここでは、わたしたちはイエスを宣教者としてよりよく知ることになります。「彼らに近づき、彼らと共に歩いておられた」。この象徴するところは明らかです。弟子たち=混乱、苦々しい悲しみ、悲観主義。イエスは楽しみを失った人に近づきます。当惑している人たちのところに近づきます。=揺らいでいる人への宣教師の姿です。「イエスは彼らと共に歩き始めます」。何も言わず、慎み深く。強引に割り込むことはありません。耳を傾け、会話に加わります。「どんなことを話しているんですか?」。教育術のあるイエス、福音伝達者イエスは、自助行為を助けます。彼らを揺るがすことなく、彼らが間違っているとも言いません。彼ら自身が自分の中にあることをはっきりさせていくのです。〈内側にある絡まりを解いていくこと〉。何と大切なことでしょう!
イエスはぴったりの質問をします。その会話の目的、その気分の状態についての問いです。「なぜ、悲しんでいるんですか?」そこには二つの段階があります。
·    無礼な言動:「このことを知らない外人は、あなただけですよ」。イエスはこの無作法を平和裏に受け入れます。
·    「メランコリックな二人」。そこには福音記者聖ルカの微妙なユーモアが込められていますが、彼らはそこで「ケリュグマ」、つまりクレド(信仰宣言の内容)を繰り返します。イエス・キリストについて言い広める時の言葉です。「ナザレ出身のイエス、力ある預言者…」と。それはまさにペトロやパウロがなす宣言と同じです。使徒言行録2章、3章、10章などに見られます。それは初期教会の教会のケリュグマです。使徒言行録13章を見てください。〈これはメッセージそのものです〉。コミカルな状況です。残念なことであったかのように救いのメッセージを告げ知らせているのです。悲しみのこもった言葉で、葬式に向かうような顔で救いのメッセージを語っています。というのは、自分たちが口にしている「ケリュグマ」を理解していないからです。残念なことのように、心なく告げ知らせています。これは落胆のもたらす実りです。(わたしたちの説教、教話の多くはこのようになっていませんか?)
わたしたちは、自分は、病気や家族の問題、飢餓などといった様々な機会に、どのような反応をするか考えるいいでしょう。こうした状況を前に、様々な仕方で反応することができます。平和を失うこと、神経質になること、あるいはやる気を出すこと、祈ること・・・。エマオの弟子たちにどのような助けの手を差し伸べることができるでしょう?そうした人たちをどう手伝えるでしょう?どう救いの宣言を運べばいいのでしょう?
イエスは三段階で答えます。
1.  アタック。乱暴な忠告です。「あぁ、愚かで心の鈍い者たち」。あれほど平和に満ちた男がどうしてそんなにも不躾になったのでしょう?
2.  聖書の宣言:「キリスト(油注がれたもの)は苦しまなければならなかったんじゃないんですか?」この人たちの根底にある問題は何だったのでしょう?それはいつもの〈疑い〉でした。神はどこにいるのだろうか?できなかった(全能ではなかった)のか?どうして悪が勝利するのを見逃しているのか?
3.  解釈の鍵。神はその手にすべてのことを収めておられる。すべては〈彼の計画に従って〉生じた。として、説明を始めます。
      あなたたちはその救いの計画を知っていました。
      聖書に書かれていました。アブラハムの話、紅海を渡る話、その民が形成されていく話。
      イエスは福音伝達者、また教師になります。
      弟子たちは変わります。友情を生きることができるようになります。「わたしたちと共にお留まりください」と。
      イエスは彼らが知っているしるしをもって〈自らを開示〉します。それはその後の教会が行うイエス表明のしるしとなりました。つまりパン割きです。
      そこでもっとも重要な特徴が現れます。「心が燃えていたではないか」=〈燃えていた〉のです。
結び:いつもの問いです。
l  こんなにも多くの悪事を容認する神をどうすれば信じられるのか?
l  大切なのは論理的なものではない。
l  大切なのは〈イエスが生きている〉とわたしたちに確認させてくれる神の愛に包まれたという事実。
その愛がないならば、その「命の水」がないならば、言葉をもって納得するのは難しい。福音が、イエスがわたしたちの心の中で燃えなければ。

ギリェルモ・サントメ神父による霊操、第二週、第七日目



自分に一番役立つ姿勢と方法であなたの祈りを始めてください。短い祈りの何かを唱えることもできます。「聖霊来てください、その子らの心を満たして下さい」や他の、自分に役立つ祈りです。あなたの全存在が神の現存のうちにあるようにと努めることは善いことです。

テーマ:対話すること
一つになって生活するには、具体的な個々人と、グループの中で、国同士で、宗教間で、と対話すること以上の薬はありません。
まったく解決策のないような問題というのはありません。橋をかけようとすることほどよい薬はありません。
多くの人々や多くのグループの悲劇は、コミュニケーションの不足にあります。
·         ほんもののコミュニケーション。最近は無名のコミュニケーションが氾濫しています。たくさんしゃべっても何も語っていないこと。耳を傾けることなく耳に入ってくること。コンタクトを取らずに、あるいはコンタクトを避けて(!!!)人々と出会うこと。
·         ほんものの対話はいつでも実りをもたらすものです。何か普通で自然でなければならないものです。特に一緒に生活している人たちは。
近さは尊敬の距離を作り出し、特には分かちもします。あまりの仲の良さは後退をも生み出しうるものです。
同じ家や同じ職場にいる親や兄弟たちが、毎日一緒にいるのにほとんどコンタクトがあるかないか、というのは悲しいことです。さらに、何らかのコンタクトがあり、他の人にはない時、これはあらゆることにネガティブに影響を及ぼします。全メンバーが何かに苦しむのです。たとえば、ある父親が、わが子が友達を通して電話のラインを分けたということに気づくとき。身体的な近さと感情面の囲いや距離感。契約なくそこにいると言うこと。相互理解のない親戚関係。
対話のために重要なのは〈雰囲気〉です。相手が自分を〈噛みつか〉ないように。相手と、その人としてのあり方、そして自分に言ってくることをわたしは尊重しなければなりません。
対話することは〈信仰〉を実践することです。神は人と人との間の距離を縮めて一つにすることのできる方です。対話は「橋」なのです。対話には互いに判決を降し合うようなことはあってはなりません。議論ではなく、討論でもありません。相手を説得することでもありません。〈相手を理解〉しようとし、〈相手が自分のことを理解すること〉ができるようにと努めることなのです。
対話に際して、自分を守ることも、人を攻撃することもなく、自分をそこに置き、拡げ、聴くのです。「イエスが感じたように感じ」ようとすることです。相手の身になってみようと努めることなのです...。相手が開示することで喜び、その考え方や感じていることがわたしに示されることに喜び、自分のこと、自分の考えや感じていること、自分の苦しみや喜びを相手や他の人たちに知ってもらえることに喜ぶのです。理論で話しているわけではありません。信じていることがなされるのです。これは人間という存在が体験できる最も美しいことのひとつです。共感をもってコミュニケーションを取り、相手や他の人たちを受け入れることができるということは。体験したことがないなら説明しがたい情愛の雰囲気を作ることなのです。
自分を攻撃しない誰かに自分のことを知ってもらうことができるのは喜びです。小教区の事務室に入ってきた女性のことを覚えています。わたしに二時間以上止まらずに話しました。わたしは彼女の両目を見て「彼女がわたしに語っていることを感じ」ようと努める以外のことはできませんでした。もう終わったかと読みとった時に「あなたのために何ができるでしょうか」と尋ねました。〈何も〉、というのが答えでした。「もうしてくださいましたから。〈わたしのことを聞いてくれましたから〉」。わたしに握手をし、その後二度とその女性に合うことはありませんでした。これはわたしにとってものすごい教えになりました。
対話は普段の生活の糧です。小教区や共同体、家族、職業の世界では不可欠のものです。
対話の目的は共通のポリシー作りにあるのではなく、〈そうしたものがなくても生きることを教えるため〉であることを理解しておかなければなりません。そしてこのようにして、わたしたちはいくつかのことに関してはある種同じあり方、意見の一致に到達するでしょう。多くのことは宙に浮いたままになるでしょうが、もし共に生活しなければならないなら、語り、耳を傾ける、ということをする必要があります。対話には終わりがありません。このことは本物の友達をもっている人々ならよく知っています。対話とわたしの証しを信徒獲得のための勧誘にしてしまうわけにはいきません。ましてやわたしの経験を「砲弾」にするわけにはいかないのです。証しをすることはよいことですが、できる限り抑えてなされるべきです。
そうすると対話とは人にとって教育であることの証拠になります。わたしたちをより開かせ、より注意を払わせ、〈よりしつけのなった〉人にするのです。これは人の性格のための最もよい学校です。〈恐れ〉のあるところには対話はありません。「他者は地獄ではない」のです。
結び:いつも次の問いへの答えが問われるべきです。わたしは誰と対話できずにいるだろうか?と。

ギリェルモ・サントメ神父による霊操、第二週、第六日目



自分に一番役立つ姿勢と方法であなたの祈りを始めてください。短い祈りの何かを唱えることもできます。「聖霊来てください、その子らの心を満たして下さい」や他の、自分に役立つ祈りです。あなたの全存在が神の現存のうちにあるようにと努めることは善いことです。

テーマ:二言目:「今日あなたはわたしと共に・・・いるだろう」
イエスは二人の強盗の間で十字架にかけられています。そのうちの一人がイエスをあざけって言います。「もし他の人を救ったと言うのなら、自分自身を救い、俺たちも救え」。もう一方の態度の何と異なることか。ルカ2340節-41節にあります。「わたしのことを思い出して下さい」
·    十字架に架けられたキリストを責めるそうした態度を、真剣に直す。
·    キリストの無実を認識する。
·    今自分がしている不正を糾弾する。
·    自分の犯罪について公的告解をする。十字架の前でわたしたちは何度この言葉を言わなければならないことでしょう!!

 彼はイエスの特権付きの弟子になりました。恵みが彼に触れたのです。ペトロは、使徒ですが、イエスを否み、この強盗はイエスを(正しい人であると)告白します。エマオの弟子たちは信頼しませんでしたが、このよい強盗は信頼をもって願い求めます。トマスは復活を疑いますが、よい強盗はイエスが死後支配するであろうことを疑いません。
よい強盗は、この現実を最悪な状況の中で体験し、イエスのみ国は霊的であることを理解します。
何という模範をわたしたちに残していることでしょう!へりくだり。神に近づくための不可欠な心構えです。「わたしのことを思い出して下さい」。ここでは「模試お望みならば」とは言っておらず、信頼をもって「思い出して下さい!」と言っています。それだけで充分なのです。何もあなたに求めません、ただ「覚えていて下さい」。わたしたちの人生の中で、幾度となく友達や、大好きな人たちに言ってきたものです。これからも言い続けるでしょう。「み国においでになる時に」。この十字架につけられた男は〈何か〉を見つけたのです。
イエスの返事は次のようです。
·         「本当にあなたに言う」:イエスの権威のすべてがのしかかっている重みのある言葉。
·         「今日」:天国はその同じ日に。
·         「人々の前でわたしのことを告白する人のことを、わたしは御父の前で告白しよう」(マタイ1032節参照)。「あなたはわたしと共にいる」:これは報いである。
 聖アウグスティヌスが言っています。「どこで、一体、イエスとうまくいかないでいられよう?そして、どこで、イエス抜きで落ち着いていられるだろう?」。「楽園に」。幸いなること。神の視点:「目が見もせず、耳が聞いたこともない」(Iコリント29節)。限界のない美しさ!!悪が一切混ざっていないあらゆる種類の善。
 この言葉の実り:
·   祈りの力:神はいつも、もっと与える。
·   悪い強盗に照らし出される人の惨めさ。ゆるしを求めない時の惨めさ、わたしたちが許さない時の惨めさです。わたしたちは「絶対許さない」と言ったり、そう言っているのを聞いたりしたことがあります。それは何かイエスの精神とまったく無関係のものです。
·   恵みの深い神秘:一人は救われ、もう一人は救いを知りたいとも思いません。
·   回心を遅らせないこと(これをやっている日々こそが絶好の時です)。毎日:「わたしのことを覚えていてください」、「わたしたちのことを覚えていてください」。ある日、わたしたちは「今日」という言葉を聞くでしょう。善い神さまが準備のできたわたしたちをその日には見つけてくださいますように。
結び:今この瞬間に「主よ、わたしのことを思い出して下さい、覚えていてください」というのは難しいことではありません。