2013年10月4日金曜日

ギリェルモ・サントメ神父による霊操、第二週、第七日目



自分に一番役立つ姿勢と方法であなたの祈りを始めてください。短い祈りの何かを唱えることもできます。「聖霊来てください、その子らの心を満たして下さい」や他の、自分に役立つ祈りです。あなたの全存在が神の現存のうちにあるようにと努めることは善いことです。

テーマ:対話すること
一つになって生活するには、具体的な個々人と、グループの中で、国同士で、宗教間で、と対話すること以上の薬はありません。
まったく解決策のないような問題というのはありません。橋をかけようとすることほどよい薬はありません。
多くの人々や多くのグループの悲劇は、コミュニケーションの不足にあります。
·         ほんもののコミュニケーション。最近は無名のコミュニケーションが氾濫しています。たくさんしゃべっても何も語っていないこと。耳を傾けることなく耳に入ってくること。コンタクトを取らずに、あるいはコンタクトを避けて(!!!)人々と出会うこと。
·         ほんものの対話はいつでも実りをもたらすものです。何か普通で自然でなければならないものです。特に一緒に生活している人たちは。
近さは尊敬の距離を作り出し、特には分かちもします。あまりの仲の良さは後退をも生み出しうるものです。
同じ家や同じ職場にいる親や兄弟たちが、毎日一緒にいるのにほとんどコンタクトがあるかないか、というのは悲しいことです。さらに、何らかのコンタクトがあり、他の人にはない時、これはあらゆることにネガティブに影響を及ぼします。全メンバーが何かに苦しむのです。たとえば、ある父親が、わが子が友達を通して電話のラインを分けたということに気づくとき。身体的な近さと感情面の囲いや距離感。契約なくそこにいると言うこと。相互理解のない親戚関係。
対話のために重要なのは〈雰囲気〉です。相手が自分を〈噛みつか〉ないように。相手と、その人としてのあり方、そして自分に言ってくることをわたしは尊重しなければなりません。
対話することは〈信仰〉を実践することです。神は人と人との間の距離を縮めて一つにすることのできる方です。対話は「橋」なのです。対話には互いに判決を降し合うようなことはあってはなりません。議論ではなく、討論でもありません。相手を説得することでもありません。〈相手を理解〉しようとし、〈相手が自分のことを理解すること〉ができるようにと努めることなのです。
対話に際して、自分を守ることも、人を攻撃することもなく、自分をそこに置き、拡げ、聴くのです。「イエスが感じたように感じ」ようとすることです。相手の身になってみようと努めることなのです...。相手が開示することで喜び、その考え方や感じていることがわたしに示されることに喜び、自分のこと、自分の考えや感じていること、自分の苦しみや喜びを相手や他の人たちに知ってもらえることに喜ぶのです。理論で話しているわけではありません。信じていることがなされるのです。これは人間という存在が体験できる最も美しいことのひとつです。共感をもってコミュニケーションを取り、相手や他の人たちを受け入れることができるということは。体験したことがないなら説明しがたい情愛の雰囲気を作ることなのです。
自分を攻撃しない誰かに自分のことを知ってもらうことができるのは喜びです。小教区の事務室に入ってきた女性のことを覚えています。わたしに二時間以上止まらずに話しました。わたしは彼女の両目を見て「彼女がわたしに語っていることを感じ」ようと努める以外のことはできませんでした。もう終わったかと読みとった時に「あなたのために何ができるでしょうか」と尋ねました。〈何も〉、というのが答えでした。「もうしてくださいましたから。〈わたしのことを聞いてくれましたから〉」。わたしに握手をし、その後二度とその女性に合うことはありませんでした。これはわたしにとってものすごい教えになりました。
対話は普段の生活の糧です。小教区や共同体、家族、職業の世界では不可欠のものです。
対話の目的は共通のポリシー作りにあるのではなく、〈そうしたものがなくても生きることを教えるため〉であることを理解しておかなければなりません。そしてこのようにして、わたしたちはいくつかのことに関してはある種同じあり方、意見の一致に到達するでしょう。多くのことは宙に浮いたままになるでしょうが、もし共に生活しなければならないなら、語り、耳を傾ける、ということをする必要があります。対話には終わりがありません。このことは本物の友達をもっている人々ならよく知っています。対話とわたしの証しを信徒獲得のための勧誘にしてしまうわけにはいきません。ましてやわたしの経験を「砲弾」にするわけにはいかないのです。証しをすることはよいことですが、できる限り抑えてなされるべきです。
そうすると対話とは人にとって教育であることの証拠になります。わたしたちをより開かせ、より注意を払わせ、〈よりしつけのなった〉人にするのです。これは人の性格のための最もよい学校です。〈恐れ〉のあるところには対話はありません。「他者は地獄ではない」のです。
結び:いつも次の問いへの答えが問われるべきです。わたしは誰と対話できずにいるだろうか?と。

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