2013年10月4日金曜日

ギリェルモ・サントメ神父による霊操、第三週、第一日目



自分に一番役立つ姿勢と方法であなたの祈りを始めてください。短い祈りの何かを唱えることもできます。「聖霊来てください、その子らの心を満たして下さい」や他の、自分に役立つ祈りです。あなたの全存在が神の現存のうちにあるようにと努めることは善いことです。

テーマ:イエスさまに近づく(II
しばらくの間イエスの生活のエピソードを回想していきましょう。ルカ241335節です。
ナザレで受け入れられないイエスのことを思い出してきました。よく準備された霊操があったなら、それはこのナザレからのものでした。最良の説教者、準備された聴衆、共鳴。言葉づかいにおける一致。
けれど結果は得られませんでした。〈宣言〉を受けたがらなかったのです。神の言葉に開示しなかったのです。
エマオの弟子たちのことを思い出しましょう。
その二人ので使徒は、誰だったのでしょうか?
「彼らのうちの二人」、グループのメンバーです。その場限りの弟子ではなく、「わたしたちのうちの人たち」です。何らかの形で培われた人たちで、希望をもったことのある人たちです。彼らが絶望してしまいます。なぜなら〈何も起こらなかった〉からです。ここでどうすればいいのか?意味がない、と。
これは「福音伝達者」の普通の試練です。信仰を捨てるわけではないけれど、去ってしまう・・・普通の人になるために。他の人たちのように生活するために。
彼らが期待していたのは何か「曖昧でモヤモヤしたもの」でした。「起こったことすべてについて語り合っていました」(4節)。「自分たち同士で議論していました」(5節)。「悲しみに埋もれながら立ち止まった」(6節)のです。わたしから見て、こうした人たちはどう映るでしょうか?
苦々しい経験のようです。物事がうまくいかなかった時に起こるような議論をしています。誰のせいなのかを探し、わだかまりが残っています。彼らは友人でしたが、「揺らいでいました」。あまりに多くのことがうまくいかない時のわたしたちのことを考えることも出ます。わたしは継続するために苦しんでいる教会のあるムーブメントのリーダーたちのことを考えています。「死ななければならない(終わらせなければならない)ものごと」がある。まさにこの苦しみで傷つくことはわたしたちにとって〈誇り〉になるのですが、教会のために、福音化のためにわたしたちの生活を捧げた人々、多くの人たちがいますが、物事がうまくいかないのは胸が痛みます。もし関心がないなら、すぐに慰められるでしょう。それはそんなに大切ではなかったことのしるしです。このことはわたしたちを新しい問いへと導きます。
イエスは何をするのでしょう?
ここでは、わたしたちはイエスを宣教者としてよりよく知ることになります。「彼らに近づき、彼らと共に歩いておられた」。この象徴するところは明らかです。弟子たち=混乱、苦々しい悲しみ、悲観主義。イエスは楽しみを失った人に近づきます。当惑している人たちのところに近づきます。=揺らいでいる人への宣教師の姿です。「イエスは彼らと共に歩き始めます」。何も言わず、慎み深く。強引に割り込むことはありません。耳を傾け、会話に加わります。「どんなことを話しているんですか?」。教育術のあるイエス、福音伝達者イエスは、自助行為を助けます。彼らを揺るがすことなく、彼らが間違っているとも言いません。彼ら自身が自分の中にあることをはっきりさせていくのです。〈内側にある絡まりを解いていくこと〉。何と大切なことでしょう!
イエスはぴったりの質問をします。その会話の目的、その気分の状態についての問いです。「なぜ、悲しんでいるんですか?」そこには二つの段階があります。
·    無礼な言動:「このことを知らない外人は、あなただけですよ」。イエスはこの無作法を平和裏に受け入れます。
·    「メランコリックな二人」。そこには福音記者聖ルカの微妙なユーモアが込められていますが、彼らはそこで「ケリュグマ」、つまりクレド(信仰宣言の内容)を繰り返します。イエス・キリストについて言い広める時の言葉です。「ナザレ出身のイエス、力ある預言者…」と。それはまさにペトロやパウロがなす宣言と同じです。使徒言行録2章、3章、10章などに見られます。それは初期教会の教会のケリュグマです。使徒言行録13章を見てください。〈これはメッセージそのものです〉。コミカルな状況です。残念なことであったかのように救いのメッセージを告げ知らせているのです。悲しみのこもった言葉で、葬式に向かうような顔で救いのメッセージを語っています。というのは、自分たちが口にしている「ケリュグマ」を理解していないからです。残念なことのように、心なく告げ知らせています。これは落胆のもたらす実りです。(わたしたちの説教、教話の多くはこのようになっていませんか?)
わたしたちは、自分は、病気や家族の問題、飢餓などといった様々な機会に、どのような反応をするか考えるいいでしょう。こうした状況を前に、様々な仕方で反応することができます。平和を失うこと、神経質になること、あるいはやる気を出すこと、祈ること・・・。エマオの弟子たちにどのような助けの手を差し伸べることができるでしょう?そうした人たちをどう手伝えるでしょう?どう救いの宣言を運べばいいのでしょう?
イエスは三段階で答えます。
1.  アタック。乱暴な忠告です。「あぁ、愚かで心の鈍い者たち」。あれほど平和に満ちた男がどうしてそんなにも不躾になったのでしょう?
2.  聖書の宣言:「キリスト(油注がれたもの)は苦しまなければならなかったんじゃないんですか?」この人たちの根底にある問題は何だったのでしょう?それはいつもの〈疑い〉でした。神はどこにいるのだろうか?できなかった(全能ではなかった)のか?どうして悪が勝利するのを見逃しているのか?
3.  解釈の鍵。神はその手にすべてのことを収めておられる。すべては〈彼の計画に従って〉生じた。として、説明を始めます。
      あなたたちはその救いの計画を知っていました。
      聖書に書かれていました。アブラハムの話、紅海を渡る話、その民が形成されていく話。
      イエスは福音伝達者、また教師になります。
      弟子たちは変わります。友情を生きることができるようになります。「わたしたちと共にお留まりください」と。
      イエスは彼らが知っているしるしをもって〈自らを開示〉します。それはその後の教会が行うイエス表明のしるしとなりました。つまりパン割きです。
      そこでもっとも重要な特徴が現れます。「心が燃えていたではないか」=〈燃えていた〉のです。
結び:いつもの問いです。
l  こんなにも多くの悪事を容認する神をどうすれば信じられるのか?
l  大切なのは論理的なものではない。
l  大切なのは〈イエスが生きている〉とわたしたちに確認させてくれる神の愛に包まれたという事実。
その愛がないならば、その「命の水」がないならば、言葉をもって納得するのは難しい。福音が、イエスがわたしたちの心の中で燃えなければ。

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