自分に一番役立つ姿勢と方法であなたの祈りを始めてください。短い祈りの何かを唱えることもできます。「聖霊来てください、その子らの心を満たして下さい」や他の、自分に役立つ祈りです。あなたの全存在が神の現存のうちにあるようにと努めることは善いことです。
テーマ:信仰、神の目で見ること
タゴールは子どもの頃の自分の体験談をしています。ものがよく見えなかった、ぼやけて見えていた、目に何らかの欠陥がありました。ある日冗談で、教室の他の子の眼鏡を取ってかけてみました。するとよりはっきり見えるではありませんか!そこで二つの感情を得たと言います。一つは見ることのできた世界の美しさによる喜びと歓喜、もう一つは自らの悪い部分に関する無知に対する悲しみと怒りです。自分が欺瞞の中で生きていたと感じたのです。
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教訓はシンプルです:世界は世界である。そこにある。
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自分の目は〈自分の〉目です:主体に独自の何か=主体的、その欠点も含めて。
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眼鏡:これは〈信仰〉です:そのレンズが信仰なのです。なぜなら信仰というのはサンスクリット語では「神の目」という意味だからです。
信仰とは新たな展望です。人生のすべてが変わります。(リディアという、ジャングルにいた女の子のことを思い出します。あまりに悪いことに囲まれて、見ることができずにいました。けれど医学的な本当に質素な手当てで―というのはそれまで誰も彼女のことを憂慮しなかったのです―、視力が回復したのです。本当にすべてが変わったのです!!
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物事を、神が見ているように見ること、神の目をもつこと、これが信仰です。わたしの目、乏しい目(まるで視力の衰えたおじいさんがテレビで見ているものがぼやけていて白黒だと思い込んでいるような状態)。わたしの乏しい目、それほどまでに限られ、それほどまでに様々な条件で縛られているものの見え方...
物事を、神が見ているように見ること:そしてそのようにわたしたちの世界、わたしたち自身の魂を見ること。神の立場から、信仰の立場から行動すること。キリスト教の共同体も同様:信仰の立場から物事を考え巡らし、行動すること。
そのためには神とコミュニケーションを取らなければなりません。神に耳を傾け、神を知り、信頼し、〈そして神とそのプログラムやその使命を自分のアイデンティティとすること〉です。
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いつもわたしたちは文句を言っています。
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文句を言うことは信仰の欠如の表れです。「神に対してつぶやいてはならない」。
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信仰はわたしたちが神の視点に入っていくことができるようにします。そしてこれはまたキリスト教共同体の務めでもあります。
タゴールが言っています。世界はある種の工場です。従業員は8時間働きます。疲れ、汗をかきます。家に帰り、休み、仕事に戻ります。工場の計画を語る上司と話します。従業員は機械からでもなく仕事の役職からでもなく、方向性を与えるもののプランから自分の仕事を見始めます。神との関わりはこのようなものです。神とコミュニケーションを取らなければなりません。神にはそのプランがあります。神が見ているように物事を見ようとしなければなりません。聖パウロはよく表現したものです:「(信仰とは)待ち望まれていることの保証(望んでいることを確信し)」(ヘブライ11章1節)。もしこれを人間的な秩序において見るならば、グループや社会が機能するようにとの保証です。救いの計画の保証というのは、信仰から、神への信頼から来るのです。ヘブライ人への手紙11章1節はこう続けています。それは「見えない現実を証明すること(見えない事実を確認すること)」であると。けれど意義があるのです!見えないものは、親方の頭の中、神の考えの中にあるのものなのです。
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わたしたちはしばしば反対のものとしてこれを見ています。
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敵の方がもっと影響力をもっています。
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立派であることが何の役にも立ちません。そこには欺瞞があります。
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善意にスペースがありません。
こうしたことすべてに対して何を言えばいいのでしょう?信仰は日々の出来事のうちに体験されなければならないものです。日々パワーと妬みが現れます。幸運も不運もあります。善と悪とが混じり合っています。「なんでもオーケー」という考え方が生まれます。信仰というのは、いのちの書なのです。そしてそこで神の声のうちにその信頼を保管しなければなりません。そして自分の〈今日の〉、またわたしたちの世界の現実を神の目で見ようとしなければならないのです。
当然、この信仰は闇の中を、手探りのように(危険だらけで)歩みます。けれど神の手に導かれて進むのです(自分からは来ない、神から来る信頼と励まし)。この信仰をもってわたしたちは歩みます。前進し続けます。それは大洋のただ中を進むコロンブスのようです。
そんなわけで、わたしたちは宗教者の信仰について語っています。人間的な信じる行為もあります。自分の力や知識などに信頼すること、他者に信頼を置くこと、などです。ここでは違います。信仰はわたしを愛している、「わたしに力を下さるあの方」(フィリ4章13節)である神に信頼することです。
このような信仰が体験される時、人はすでに新しい存在です。そこには明瞭さと可能性があります。水撒きをした土地、水のある土地のようです。
結び:何か変わったことについてはわたしたちは語っていません。神さまのおかげで多くの人々の生活の中で与えられています。育つことができる、というのです。そしてこれが、よい時なのです。「主よ、わたしたちの信仰を増やして下さい」と。毅然として神のみ言葉に信頼した聖母マリアに祈りましょう。
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