叙階された人にとっては、たぶん生まれた日よりも、叙階記念日は特別です。
それはたぶん、叙階の日は、新たな誕生を、それもただただ恵みによって与えられる、この世に贈られる経験を意識しながら体験するからでしょう。
この日は、メキシコから来たエクトル神父の司祭叙階記念と、うちのアメリコ助祭の叙階記念を一緒に祝いました。
ミサの風景叙階の日に選んだ聖句の前で。「わたしの中で生きているのは、わたしではありません。そこで生きているのはキリストなのです!」
パーティーの始め、わざとDJを装って、自分で「今日は、今からやってくるエクトル神父の叙階記念です。ようこそ」って笑いをとっていました。
チャマメをおどりながら。
ほっと一息、イエス様とマリア様の間で。
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