2013年9月19日木曜日

ギリェルモ・サントメ神父による霊操、第二週、第三日目



第二週:第三日目
今日から自分に一番役立つ姿勢と方法であなたの祈りを始めてください。短い祈りの何かを唱えることもできます。「聖霊来てください、その子らの心を満たして下さい」や他の、自分に役立つ祈りです。あなたの全存在が神の現存のうちにあるようにと努めることは善いことです。

テーマ:祈ること
祈るとは、体も精神も含めた全人格で、神の経験を体験しようとすることです。そしてこれはなにか特別変わったことではなく、普通のことなのです。
1.  自然本性は獲得によって育ちます。外界から何かを受けるのです(わたしたちもです)。けれど人格は、〈内側〉からも何かを受けます。成熟すると、他者へも開かれていきます。十字架における大切な本質的なことは苦しみではなく、自分自身を引き渡すことにあったのです。
2.  人格の伴うある一人の人を知るというのは、その人の何か〈について知る〉というのとは異なります。永遠のいのちとは、神の何かについて知ることではなく、神を知ることなのです。「これが永遠のいのちです。唯一の神、あなたを知ることと、あなたが送ってくださった人、イエスを知ることです」(ヨハネ173節)。
3.  対話において知的内容と情緒的内容、考えと気持ちが区別されます。
     祈りとは二人の人(格)のコンタクトです。相互傾聴、相互同伴、もしできるなら、エンパシー(共感)があります。「他の人の身になって感じ考えること」。
     あらゆる人格的な経験には三つの要素があります。
1.      その人がそこにいて、わたしとコミュニケーションを取りたいと望んでいるということへの信仰。わたしはキリストとコミュニケーションを取ります。
2.      不可能なことではないということ。多くの人が体験していることです。
3.      最高のコミュニケーションであるということ。それは人格的な関係です。多くの言葉は必要ありません。アルスの神父(聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ)に、何時間も聖櫃の前で過ごしていたとある年輩の人が言っていたことですが、「わたしが彼を見つめ、彼がわたしを見つめる」ことなのです。イエスの言葉にはこう言うセリフもあります。「あなたがたが祈るときは、・・・くどくどと述べてはならない。神は・・・あなたがたに必要なものをご存知なのだ」(マタイ678節参照)。アメリカには的を射た表現があります。「オウムのようにしゃべらない」ようにする、という表現です。オウムは意味を知らずまた体験もしたことのない言葉を繰り返すだけです」から。
祈りは自分の生活に取り込まれていなければなりません。
             イエスは・・・
Ø  その人生の重要な出来事の前に祈っています。
Ø  日々祈っています。何か普通のことでした。「退き、祈られた」。
Ø  揺らぎの時に祈ります。たとえば、オリーブの園にいた時…
Ø  物事がうまく言った時に祈ります。人々がイエスを王にしようと望むほど認めた時にも、十字架上にいた時にも。
Ø  その存在全てが救いの神秘にささげられていました。イエスのいのちと祈りとを分かつことはできません。行動において観想的であること、です。いのちそのものがわたしを祈ることへと促します。
わたしの祈りには共同体意識がなければなりません。祈りは個別の出来事ではないのです。イスラエル人が人前で祈るために持っていた最初の資格の名はイスラエルの民への〈所属〉でした。その共同体への所属の性質だったのです。イエスは個人として、また[共同体]のメンバーとして祈ります。わたしたちは一つの民です。わたしたちは〈ひと房(ふさ)にまとまって〉救われるのです。
自分の問題について祈り、これを提示することはできます。けれど共同体意識が必要です。「わたしは一人ではないんだ」という意識です。自分には物理的な同伴は必要ではなくても、神の民との連帯を生きます。わたしは神がその民と結んだその〈契約〉の一部を成しているのです。
主の祈りの中では、そのすべての祈りが複数形で祈られています。自分の祈りは何らかの〈必要性〉に応えていなければなりません。「わたしは〈極貧〉です」と。自分に都合のよい時に使うような何か便利なもの、ということではありません。それはなにかわたしが〈必要としているもの〉なのです。〈方法〉についての論拠はなく、ただ〈終点の目標〉があるのみです。それは〈たたえる〉ことです。「その栄光についての賛美」です。
神を敬い〈受け入れます〉。けれど同時に自分が神によって尊重され〈愛されている〉と感じます。
困難はと言えば、あります。効率と速さが求められる世紀にあります。多くの方々の生活には〈時間が足りません〉。放蕩がわたしたちを取り囲んでいます。何よりも、神の強制があります。神はわたしたちを暴きます。神を聞きたくないのです。新しい責任(応答性)が生まれてきます。祈りにおいて、自分は真実であり、仮面をかぶっていません。神とわたしがいます。これを乗り越えれば、他のものはシンプルです。無味乾燥感にもかかわらず、恵みをもたらすことを経ます。
実践的な決断:
      祈りは内面への旅です。
      愛します。これは愛に満ちた、愛らしいコミュニケーションです。
      これは日々必要なものです。わたしたちは、祈りのうちに世界と兄弟姉妹たちを目の前に据えるのです。主を信じなさい。「わたしが信頼している通りの人になりなさい」と聖パウロが言っていました。

ギリェルモ・サントメ神父による霊操、第二週、第二日目



第二週:第三日目
今日から自分に一番役立つ姿勢と方法であなたの祈りを始めてください。短い祈りの何かを唱えることもできます。「聖霊来てください、その子らの心を満たして下さい」や他の、自分に役立つ祈りです。あなたの全存在が神の現存のうちにあるようにと努めることは善いことです。

テーマ:祈ること
祈るとは、体も精神も含めた全人格で、神の経験を体験しようとすることです。そしてこれはなにか特別変わったことではなく、普通のことなのです。
1.  自然本性は獲得によって育ちます。外界から何かを受けるのです(わたしたちもです)。けれど人格は、〈内側〉からも何かを受けます。成熟すると、他者へも開かれていきます。十字架における大切な本質的なことは苦しみではなく、自分自身を引き渡すことにあったのです。
2.  人格の伴うある一人の人を知るというのは、その人の何か〈について知る〉というのとは異なります。永遠のいのちとは、神の何かについて知ることではなく、神を知ることなのです。「これが永遠のいのちです。唯一の神、あなたを知ることと、あなたが送ってくださった人、イエスを知ることです」(ヨハネ173節)。
3.  対話において知的内容と情緒的内容、考えと気持ちが区別されます。
     祈りとは二人の人(格)のコンタクトです。相互傾聴、相互同伴、もしできるなら、エンパシー(共感)があります。「他の人の身になって感じ考えること」。
     あらゆる人格的な経験には三つの要素があります。
1.      その人がそこにいて、わたしとコミュニケーションを取りたいと望んでいるということへの信仰。わたしはキリストとコミュニケーションを取ります。
2.      不可能なことではないということ。多くの人が体験していることです。
3.      最高のコミュニケーションであるということ。それは人格的な関係です。多くの言葉は必要ありません。アルスの神父(聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネ)に、何時間も聖櫃の前で過ごしていたとある年輩の人が言っていたことですが、「わたしが彼を見つめ、彼がわたしを見つめる」ことなのです。イエスの言葉にはこう言うセリフもあります。「あなたがたが祈るときは、・・・くどくどと述べてはならない。神は・・・あなたがたに必要なものをご存知なのだ」(マタイ678節参照)。アメリカには的を射た表現があります。「オウムのようにしゃべらない」ようにする、という表現です。オウムは意味を知らずまた体験もしたことのない言葉を繰り返すだけです」から。
祈りは自分の生活に取り込まれていなければなりません。
             イエスは・・・
Ø  その人生の重要な出来事の前に祈っています。
Ø  日々祈っています。何か普通のことでした。「退き、祈られた」。
Ø  揺らぎの時に祈ります。たとえば、オリーブの園にいた時…
Ø  物事がうまく言った時に祈ります。人々がイエスを王にしようと望むほど認めた時にも、十字架上にいた時にも。
Ø  その存在全てが救いの神秘にささげられていました。イエスのいのちと祈りとを分かつことはできません。行動において観想的であること、です。いのちそのものがわたしを祈ることへと促します。
わたしの祈りには共同体意識がなければなりません。祈りは個別の出来事ではないのです。イスラエル人が人前で祈るために持っていた最初の資格の名はイスラエルの民への〈所属〉でした。その共同体への所属の性質だったのです。イエスは個人として、また[共同体]のメンバーとして祈ります。わたしたちは一つの民です。わたしたちは〈ひと房(ふさ)にまとまって〉救われるのです。
自分の問題について祈り、これを提示することはできます。けれど共同体意識が必要です。「わたしは一人ではないんだ」という意識です。自分には物理的な同伴は必要ではなくても、神の民との連帯を生きます。わたしは神がその民と結んだその〈契約〉の一部を成しているのです。
主の祈りの中では、そのすべての祈りが複数形で祈られています。自分の祈りは何らかの〈必要性〉に応えていなければなりません。「わたしは〈極貧〉です」と。自分に都合のよい時に使うような何か便利なもの、ということではありません。それはなにかわたしが〈必要としているもの〉なのです。〈方法〉についての論拠はなく、ただ〈終点の目標〉があるのみです。それは〈たたえる〉ことです。「その栄光についての賛美」です。
神を敬い〈受け入れます〉。けれど同時に自分が神によって尊重され〈愛されている〉と感じます。
困難はと言えば、あります。効率と速さが求められる世紀にあります。多くの方々の生活には〈時間が足りません〉。放蕩がわたしたちを取り囲んでいます。何よりも、神の強制があります。神はわたしたちを暴きます。神を聞きたくないのです。新しい責任(応答性)が生まれてきます。祈りにおいて、自分は真実であり、仮面をかぶっていません。神とわたしがいます。これを乗り越えれば、他のものはシンプルです。無味乾燥感にもかかわらず、恵みをもたらすことを経ます。
実践的な決断:
      祈りは内面への旅です。
      愛します。これは愛に満ちた、愛らしいコミュニケーションです。
      これは日々必要なものです。わたしたちは、祈りのうちに世界と兄弟姉妹たちを目の前に据えるのです。主を信じなさい。「わたしが信頼している通りの人になりなさい」と聖パウロが言っていました。

2013年9月18日水曜日

ギリェルモ・サントメ神父による霊操、第二週、第一日目



第二週、第一日目
「緊密さの祈り」
「緊密さの祈り」。両手をそろえて天に向かう矢のような姿勢を取ることです。(詩篇85編9節)「わたしは神が宣言なさるのを聞きます」。これは願いを捧げる姿勢、謙遜の姿勢ですが、同時に贈与の姿勢でもあります。主にささげられた私のいのち、そしてわたしのいのちと共に、わたしのあらゆる意向が捧げられます。

テーマ:執着(Ⅰ)
このテーマについては何度も語っていきます。アントニオ・デ・メロの考えに従います。これは聖イグナシオの考えの要でした。
マタイ16章26節:「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があるだろうか。
このアイデアは〈多くの人々〉を助けてきました。聖アウグスティヌスは、ある子どもが浜辺で遊んでいて、色々な素敵な形、たとえばお城を造っては蹴りをかまして改めて作りなおすのを見ました。自分の過去に蹴りをかませるようなことを人々が話すように。そして新しい生き方と〈目的地〉を求めて歩き始められるでしょう。
自分の周りにいる人の不忠実さを観察してください。恐らく、わたしのなかに感じられていることも同じことだと思います。
わたしの内側におそらくあるのですが、自分の周りにある不忠実さを観察してください。
何が原因だったのでしょう?神がわたしたちの生活の中心ではありません。他に気になることがあります。他に縛り付けてくるものがあります。偽の信心があります。
l  「わたしはとても大切にしている持ち物なしには幸せになれない」という考え方。それは、第一の執着です。偽物です。一瞬一瞬、わたしには幸せになるために必要なものがあるのです。自分が不幸なのだとしたら、それは自分が〈持っていない〉ものについて考えさせるような勝手な〈プログラム〉のせいです。
l  「幸せは、いつか未来のもの」という考え方。偽物です。あなたはここで、今、幸せになることができます。けれどあなたが幸せではないのは、あなたの偽りの信心や、恐れ、縛り、心配、対立、後悔などのせいです。
l  「わたしは今の状況が変われば幸せになれる」という考え方。そう考えるなら、わたしたちは間違っています。わたしたちの誰も世界を変えません。あなたを不幸にするのはあなたの小さな頭の中、あなたの考えにあります。外側に幸せを探すのは、本末転倒です。引っ越ししたり、転職したり、などとありますが、それでは本末転倒なのです。色々と変えてみるでしょう、それでもあなたは不幸せのままです。実に多くの分裂の中で毎日を過ごしています。わたしたちは〈プログラムしてもらい〉続けるようにと努力しているのです。
l  他の偽の思い込みは願望です。「もしあなたのあらゆる願望が実現すれば、幸せになれるでしょう」という考え方。願望のせいでわたしたちが生きるのに〈緊張〉したり、フラストレーションを受けたり、神経質で不確実になるようになります。

 (願望リストを作っても構いません。リスト作りはよいことです。そこで、ほんとうにそうしたことが自分を幸せにできるんだろうか、考えましょう)

 幸せってなんでしょうか?想像し、描写しようとして見てください。長い休みの広告などを作るかのように、やってみてください。
 目の見えない人に光について描写できますか?夢を見ている間に、誰か現実について描写できる人がいるでしょうか?こうした瞬間、瞬間に、わたしはケン・ウィルバーの「日記」を読んでいますが、そこで次のような問いかけがなされます。わたしの「自分自身」は、夢を見ている間、どこにいるのだろう?悪夢は悪夢で、消えていきます。そこにも幸せはありません。夢の中にすらないのです。たとえそれが美しく尊い夢だったとしても、です。
 わたしたちは、望まずに、自分の人生の中で誤った信念を作り上げています。それはちょうど願望がわたしたちのなかで大きくなっていくのと同様です。
 そうしたものは考えの中、感情の中で育っていく、快楽、金銭、愛慾といった願望や執着です。それがわたしたちを導き、わたしたちから引き出されるものです。わたしたちが望んだり、すでに手に入れたりしている世界を失うことは、わたしたちにとって脅威です。十字架の聖ヨハネは『霊的勧告と訓戒』においてこう言います。「魂は愛着を通して、たとえ小さなものであったとしても、人間的な物事の虜になります。その絆が続く限り、神に向かって歩むことはできません」。
 そのため、強い確信ははっきりしていなければならないのは明らかです。失うことは、〈いのちを得ること〉なのです。
 結論:執着は何かわたしたちを縛るもの。わたしたちを奴隷にするもの。あなたが自由だったとしたら、それは本当によいことです!!