第一週、第七日目
「嘆願の祈り、願いの祈り」
「嘆願の祈り、願いの祈り」。座ったままで構いません。そのあと自分が一番集中できる姿勢を取ってください。聖霊の賜物を願いながら神に向かいます。正義に受け渇くこと、憐れみの賜物。「嘆き祈るわたしの声を聞いてください」(詩篇28編2節)。わたしたちはイエスを前にしてだますことなく対峙し、わたしたちが心配していること、切望や不安、等々をイエスに語ることができます。イエスは聞いています。
テーマ:イエスに近づくこと
初代教会は、いつもカリスマを生きていました。カリスマというのは、共同体の益のため、また福音化のための特別な恵みのことです。イエスの学び舎で福音を伝えるための特別な恵みをカリスマといいます。
ルカ福音書4章16-30節から読み始めることができます。そして24章13-35節を見ましょう。そこではイエスは福音化における失敗者です。
ルカ4章16-30
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
ルカ24章13-35節
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。
話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
イエスはナザレに行きます(テキストで読むところによれば)
わたしは、自分たちが福音宣教者として自己紹介をするならば、耳触りのよい言葉を使って行うと思います。ここでは、違います。失敗から始まるのです。急いで出ていかなければなりませんでした。どうして聖ルカはイエスの公生活を、このエピソードをもって始めるのでしょうか?30節から見てまいりましょう。「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」。こう言うことは自分には今まで決してなかったでしょうか?人から拒まれることです!イエスは打ちひしがれて去っていったに違いありません。ありがたくない人として。その母マリアは、他の様々な機会におけると同様、筆舌を尽くすような苦しみを耐えなければなりませんでした。
福音には、似たようなシーンが他にもまだあります。ここにルカを持っくるというは、神の国の継続だからです。暴力に苦しみます。使徒言行録13章45節がこう語っています:バルナバとパウロは去っていかなければなりませんでした。これらの言葉が聞き入れられなかったからです。イエスは言います。「あなたを人間をとる漁師にしよう」と。けれど彼らを夢見させたり、成功を収めるということを約束したりはしません。パウロのコリント人への第二の手紙1章8―9節にはこうあります。兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」。
使徒言行録14章22節:神さまは困難を通して、わたしたち「を力づけ」ます。それは神の国に入るためになすべきことのようです。
ルカはわたしたちが内省するのを望んでいます。それはいつもの望みです。「預言者を独占すること」、「写真に移ること」。何らかの奇跡を見ること!!
一方、人々は成功を求めています。わたしたちの関心事を求めています。他方、イエスの極度の自由があります。自由と言われた時に語ったり行ったりするときに生じうることには無関係です。その自由は人をそそのかし、他の興味に値すること、他の地平を示したりまでもします。イエスは自由を与えられた福音者として、神の地平線をもって登場します。イエスのように呼ばれるために召し出されました。何か結果を得られた時には、いくつかの石を積み上げます。
自分から言いたいと望んでいるわけでもありませんが、その自由において分かち合いたいと思います。超越的なその自由の富に入っていくことです。それを自由のイエスは生きました。イエスこそが自由そのものです。
このイエスの最初の宣教活動は、たったメッセージに留まらず、この教えあは伝達者に向けられていると思います。「主がわたしをお遣わしになった」。
具体的に:あなたはわたしたちを、何か言ったりしたりするためではなく、あなたと共に何かであるために呼ばれます。つまり、あなたの自由とあなたの使命に与るためです。
何をしなければならないのか、何を言わなければならないのか、どのような結果を得られるのかを考える前に、わたしがあなたと共にその使命の同僚であることが必要なのです。これこそが福音宣教への呼びかけの基本です。
神の愛、神の摂理によって救われ、恵みを得、神に属する勇気を得ました。
なぜナザレの人々はイエスに耳を傾けなかったのでしょうか?それは人々には他の期待があったからです。彼らは他の関心事で手いっぱいだったのです。
では、なぜわたしはイエスに耳を傾けないのでしょうか?何がイエスに耳を傾ける時の妨げになっているのでしょうか?イエスはわたしにとってよい知らせ(福音)でしょうか?実際、教会の大きな挑戦のひとつは、聞いてもらえないことにあります。
結論:この内省ができることに感謝をする。
イエスの母でありわたしたちの母であるマリアがわたしたちの歩みにおいて、今日の教会の歩みにおいてそこにいてくださるようにと願って天使祝詞を一回。
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