第二週、第一日目
「緊密さの祈り」
「緊密さの祈り」。両手をそろえて天に向かう矢のような姿勢を取ることです。(詩篇85編9節)「わたしは神が宣言なさるのを聞きます」。これは願いを捧げる姿勢、謙遜の姿勢ですが、同時に贈与の姿勢でもあります。主にささげられた私のいのち、そしてわたしのいのちと共に、わたしのあらゆる意向が捧げられます。
テーマ:執着(Ⅰ)
このテーマについては何度も語っていきます。アントニオ・デ・メロの考えに従います。これは聖イグナシオの考えの要でした。
マタイ16章26節:「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があるだろうか。
このアイデアは〈多くの人々〉を助けてきました。聖アウグスティヌスは、ある子どもが浜辺で遊んでいて、色々な素敵な形、たとえばお城を造っては蹴りをかまして改めて作りなおすのを見ました。自分の過去に蹴りをかませるようなことを人々が話すように。そして新しい生き方と〈目的地〉を求めて歩き始められるでしょう。
自分の周りにいる人の不忠実さを観察してください。恐らく、わたしのなかに感じられていることも同じことだと思います。
わたしの内側におそらくあるのですが、自分の周りにある不忠実さを観察してください。
何が原因だったのでしょう?神がわたしたちの生活の中心ではありません。他に気になることがあります。他に縛り付けてくるものがあります。偽の信心があります。
l 「わたしはとても大切にしている持ち物なしには幸せになれない」という考え方。それは、第一の執着です。偽物です。一瞬一瞬、わたしには幸せになるために必要なものがあるのです。自分が不幸なのだとしたら、それは自分が〈持っていない〉ものについて考えさせるような勝手な〈プログラム〉のせいです。
l 「幸せは、いつか未来のもの」という考え方。偽物です。あなたはここで、今、幸せになることができます。けれどあなたが幸せではないのは、あなたの偽りの信心や、恐れ、縛り、心配、対立、後悔などのせいです。
l 「わたしは今の状況が変われば幸せになれる」という考え方。そう考えるなら、わたしたちは間違っています。わたしたちの誰も世界を変えません。あなたを不幸にするのはあなたの小さな頭の中、あなたの考えにあります。外側に幸せを探すのは、本末転倒です。引っ越ししたり、転職したり、などとありますが、それでは本末転倒なのです。色々と変えてみるでしょう、それでもあなたは不幸せのままです。実に多くの分裂の中で毎日を過ごしています。わたしたちは〈プログラムしてもらい〉続けるようにと努力しているのです。
l 他の偽の思い込みは願望です。「もしあなたのあらゆる願望が実現すれば、幸せになれるでしょう」という考え方。願望のせいでわたしたちが生きるのに〈緊張〉したり、フラストレーションを受けたり、神経質で不確実になるようになります。
(願望リストを作っても構いません。リスト作りはよいことです。そこで、ほんとうにそうしたことが自分を幸せにできるんだろうか、考えましょう)
幸せってなんでしょうか?想像し、描写しようとして見てください。長い休みの広告などを作るかのように、やってみてください。
目の見えない人に光について描写できますか?夢を見ている間に、誰か現実について描写できる人がいるでしょうか?こうした瞬間、瞬間に、わたしはケン・ウィルバーの「日記」を読んでいますが、そこで次のような問いかけがなされます。わたしの「自分自身」は、夢を見ている間、どこにいるのだろう?悪夢は悪夢で、消えていきます。そこにも幸せはありません。夢の中にすらないのです。たとえそれが美しく尊い夢だったとしても、です。
わたしたちは、望まずに、自分の人生の中で誤った信念を作り上げています。それはちょうど願望がわたしたちのなかで大きくなっていくのと同様です。
そうしたものは考えの中、感情の中で育っていく、快楽、金銭、愛慾といった願望や執着です。それがわたしたちを導き、わたしたちから引き出されるものです。わたしたちが望んだり、すでに手に入れたりしている世界を失うことは、わたしたちにとって脅威です。十字架の聖ヨハネは『霊的勧告と訓戒』においてこう言います。「魂は愛着を通して、たとえ小さなものであったとしても、人間的な物事の虜になります。その絆が続く限り、神に向かって歩むことはできません」。
そのため、強い確信ははっきりしていなければならないのは明らかです。失うことは、〈いのちを得ること〉なのです。
結論:執着は何かわたしたちを縛るもの。わたしたちを奴隷にするもの。あなたが自由だったとしたら、それは本当によいことです!!
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