第一週:第五日目
「両手の祈り」
「両手の祈り」。立って、体をまっすぐにし、胸部の前で開いた本のように両手を開き、まるで主の前で何かを読んでいるかのような姿勢を取ります。イエスは・・・会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」(ルカ4章16節)。「主の造られたすべてのものよ、主を賛美せよ」(ダニエル3章57節)。
テーマ:「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)
l イエスの生活は宣言そのものでした。あらゆる民のところで教えて回りました。その人生の最期の瞬間に、カルワリオでその頂点に達しました・・・。
l またイエスの人生はたゆまぬ祈りそのものでした。十字架上でも祈っていたのです。声を出し、涙を流しながら祈りなさい。
l イエスは苦しみの模範でした。わたしたちのためにいのちを捧げた師に耳を傾けましょう。
l イザヤ53章12節はこう言っています。「罪人のひとりに数えられ・・・、背いた者のために執り成しをした」。
キリストの十字架上のことば群はある種の秩序のうちにあります。最初の三つは他者のため、残りの四つは個人的なものです。敵対者のために「彼らをお赦しください」と願います。友たちのために「今日わたしと共に(楽園に)いる」と願います。家族のように近しい人たちのために「そこにいるのが、あなたの息子です」と願います。
イエスは神とわたしたちの関わりに用いることのできる最良の言葉を持って始めます。「父よ」と。
この言葉を発するだけで神との関わりに入った聖人たちがいます。聖女テレジアの例はその一つです。
父である神にゆるしを求めます。神の限りない憐みです。キリストはその兄弟たちの弁護者(士)です。わたしのために祈っています。
今や、わたしは教会の普遍的な祈りについて考えることができます。善意の男女の祈りについて、です。今、誰かは分らないけれどわたしのために祈ってくれている人がいます。いつも、誰かがわたしのために祈っています。
「彼らは何をしているのか知らないのです」
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ピラトの不正。理由もなく死刑に定めることにあります、
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鞭打ち係の冷酷さでもなく、
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祭司たちの嫉妬でもなく
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扇動や大衆心理と言った、民の愚かさや恩知らずでもなく・・・。
「彼らは知らないのです」。自分自身の生き方を見ることができます。自分自身のはたらきを。他にも何度もあったように、そうです、何をしているかよくわかっているのです。それなのに、「何をしているか知らないのです」と言ってくださる。キリストの愛は、何という言い訳をしてくれるのでしょう!!そしてこれはどの時代にもそうでしたし、今、自分にも向けられています。
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誰も絶望しないように。「(人の子を)信じる者を、一人も失わないで、(彼らが)永遠のいのちを得ること(である)」(ヨハネ6章39-40節)。
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十字架においてわたしたちは赦すことを学ばなければなりません。もしイエスがわたしたちを赦してくださったというのなら、わたしたちも兄弟たちに同じことをしなければならないのです。償いの秘跡で一番きつい経験のひとつは秘跡に来る人が「赦しません」と言う時です。ゆるしを求めておきながらその人は赦さないと言っているのは、不適切極まりなくないですか?
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「わたしたち(の罪)をお赦し下さい。わたしたちも(人を)赦します」。この点が、わたしたちの自己愛が不服に感じる部分です。赦すということを送らせてはならないのです、一刻も早くしなければなりません。そしてこれは簡単ではありません。特に敵対者に対しては。「わたしがあなたがたに・・・模範を示したのである」(ヨハネ13章25節)。
結び:両掌を拡げた状態で、主の祈りの最後の言葉を思い返すことができます。いつも、感謝を込めて。
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