2013年9月6日金曜日

ギリェルモ・サントメ神父による霊操、第一週、第三日目



第一週:第三日目

「痛悔の祈り」
「痛悔の祈り」:「憐れみを、わが神よ」(詩篇51編)、「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」(詩篇130編)。誰も、どんなに無垢だとしても、カルワリオにおける、苦しみ、苦しむすべての人のために祈るイエスを模倣するのをやめてはなりません。キリストの受難をわたしの体において延長させるのです。世の暴力がなくなるようにと祈り、犠牲をささげている人たちと心を一つにします。あらゆる戦争を主が終えてくれますように。平和を求めながら。
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テーマ:信じる人 
〈神のことば〉、教会の教えを受け入れる人。受け入れ、それを生きる。
信じるというのは人間独特の活動です。そこで前提とされているのが:
      他者への開き。聞くこと:わたしたちは語りかけられると、自分は聞いていると思っています。
      わたしたちにどれほどのことを言っているのか感じ取り、意味をよく評価する。
      それを受けとめる可能性と拒む可能性があります。
 何世紀にも及ぶ知恵があります。「もし信じて果たすなら、あらゆることがうまくいくでしょう」。
 神の前に頭を下げます。信仰は、一種の賜物であり、一種の務めです。その恵みを下さる神。わたしたちの自由の使い方の学び。
 信仰と共にわたしたちには自由のが生えます。それはよい道です。
 聖書においては、〈創造〉の後、洪水の話の後に、アブラハムについての語りが割り込みます。「あなたは生まれ故郷(自分の土地、自分の部族)、父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」(創世記12章1節)。これが信仰の本質的な動向です。居心地のいい過去と決別し、知りもしない所へと向かう歩みを始めることです。
 信仰は、旅の最終目的地を啓示しません。暗闇と遠さがあります。もし真理からこれが生きられるなら、光と完全な安心が生まれます。それは神の手の中にいる、ということです。信頼が求められます。説明を求めてはなりません(ありますが)。アブラハムの出発は面白いものであったに違いません。どこに行くのかい?聞かれても答えられなかったのです。これは賢くは見えません。誰にも隠れた算用があります。保障が、確信がほしいものです。現代では、どれほど旅の計画を細かく立てていることでしょう!! 明らかにこれはこんにちの我々の世界にとっては非常識です・・・。情報がしっかりしている人が強いのです。信仰ではないのです:暗闇、信頼すること、従うこと。これが信じる人のしるしです。パウロにも同じことが起こります。ダマスコの道で恵みがパウロに届く時のことです。新しい生き方を始めるのに全くの献身をしました。それがいったいどういうものなのかは語られませんでした。「あなたのなすべきことが知らされる」(使徒9章6節)。これが信仰です:起き上がれ、出ていけ。すぐに知らされるだろう。すぐにあなたを導くだろう。歩み始めよ、神の〈ことば〉のみに信頼せよ。
 それは男女全員の献身です。信仰の長所は知られざることに飛び込んでいくことにあります。だから神は創造しうるあらゆることを越えた報いを約束するのです。「わたしはあなたを大いなる国民にする」(創世記12章2節)。神の約束は自分の歩みを照らす灯台です。「わたしの歩みにとっての光」です。人を導く光なのです。神は自らの言葉を保証にします。「あなたを祝福する」。旅はすべて信仰の行です。到達地点を知っていたとしても、です。それは生まれることに匹敵する大きな冒険です。母の胎の安全に別れを告げるのです。信仰の呼びかけは一度あったらそれっきりというわけではありません。毎日のことなのです。なぜなら信仰は何度も何度も試されるからです。毎朝が驚きです。空が白むたびに、挑戦があるのです。
 瞬間瞬間に、信仰をアップデートしましょう。その約束を新たにすることです。そのように毎日を生きることです。それがわたしたちの信仰における父、アブラハムの子孫として、良きにつけ悪しきにつけ、神にいつも信頼するということです。

 結び:「主よ、信じます。けれどわたしの信仰を育て、強めてください」という思いで祈りましょう。そして天使祝詞を一回唱えましょう。

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