2009年5月28日木曜日

5月26日(聖フィリポ・ネリの祝日)

 週末の多様な奉仕と、精神状態の乱れから、朝からなんとなく気分がすっきりしない日でした。しかも、このところ黙想しようとしても落ち着きがなく、「これではいけない」と思いながらも日々が過ぎており、霊的な渇きに気づいてはいても、どうにもうまいことバランスをとれない感じでした。
 それで、朝から、志願生たちに、「今夜、刷新のミサに行かないか?」と尋ねていて、まぁ是が否でも聖ロケ・ゴンザレス高校の中庭で行われるミサに行く予定を立てていました。とりあえず、休日ということで、しっかり昼寝をした後、聖霊の働きを願う歌を歌として歌っていたわけですが、きっとこれもなんらかの仕方で自分を準備していたのかもしれません。

 夕方、時間になっても志願生たちが現れないので、一人で車に乗り込んで町まで出かけました。火曜日の夕方だというのに、高校の中庭には、ミサのために600人以上の人が集まっていました。
ミサを立てたのは神言会のドイツ人、ホアン・ヴィンクラー神父。
 心のうちに起きた出来事を話すのは簡単ではないけれど、このミサに出られて本当に良かった。神様が僕の足を向かわせてくれたんだ、と心から思いました。ミサの前に、一人の友人に、「元気?」と普通に尋ねられて、応えたのが「たるんでるんだよ」という返事なのだからめいっていたわけで、ミサを共同司式するかどうかも実ははっきりしていなかったのです。
 けれど、栄光の賛歌を歌い始めた時、自分が高校生、大学生くらいだった時の「気分が乗らないけれど何かを求めて頑張って賛美の歌のために声を上げる心理」がフラッシュバックして、あぁ、神様はぼくがこの今の青年司牧をより目覚めた形で進めることができるために、この乗らない気分を準備してくれたんだろう、と確信しました。時には、罪の意識にさいなまれるときもあるけれど、ともかく神様を求める気分、中途半端だけれどなんとかしてすがりつこうつする気分、そういう気分でも、頭をもたげる力を神様は与えてくれる。
 そんなことを考えながらホアン神父様の説教を聞いていたとき、彼がマリア様が受胎の告知を受け、その親戚エリザベトのもとを訪れ、彼女からのあいさつを聞いた時に、「わたしの魂は主の偉大さを歌う」という言葉を発した場面に触れ、この時点で、僕も神の現存の観想に導かれました。あの聖霊に満たされたマリア様が今日もこんなに中途半端だったり罪深かったりする我々のために祈り、すでに神様に舞い戻る時を覚えながら先立って神様をたたえているのだから、今日舞いもどろう、そう思い、賛美を始めたら、頭から腰まで、また手の指先から肩の付け根まで、体の中がジンジンしてきて、聖霊が働いてすこしずつひねくれてしまってきた僕の内なる世界を整えて行ってくれているのを実感しました。
 普段、こういう霊的体験はせず、どちらかというと体に反応のでない知的な慰めが多かっただけに、改めて昨晩、神様がこの大きな神秘体験をできるように、そして宣教の視野を広げるようにと、すっきりしないあの気分も準備して下さったのだ、そう心から思うことができました。神に感謝。

 そういうわけで、すっかり気分爽快で、ミサの後、本当はミサの前の気分では誰のもとをも訪れない予定だったのですが、マグリニャ家のみなさんを訪れました。マグリニャ家のみなさんは、もう8年越しの付き合いで、ぼくの霊的な成長の節々に携わってきてくれています。五人でおいしくピザを食べ、日本でのお土産話をし、賛美のうちにおやすみのあいさつをしました。

 (ぼくのメガネ外付けサングラスです)

0 件のコメント:

コメントを投稿